ラストサムライと国士舘
トム・クルーズ主演の映画「ラストサムライ」が公開されたのが二年前である。
この映画は、明治維新後の日本に、新政府軍兵士の教育のためにやってきたアメリカ人の大尉が、近代化を目指す新政府に反旗を翻した誇り高きサムライたちと交流し、彼らと共に戦う映画である。

詳細な設定などについては、いくつも指摘・批判がなされたが、それらを踏まえても、僕は断然良い映画であると思う。日本は元より、制作元のアメリカでも評判だったらしい。
当時の新聞や雑誌などには「ラストサムライ」に関する多くの記事が書かれた。その記事の中で、アメリカに行って、映画を見たアメリカ人たちに取材した記事が載っていた。
それによると、「息子を是非、日本に留学させてサムライの心を学ばせてきたい」「娘を映画に登場した日本女性のように育てたい」など、日本人にとっては、くすぐったいぐらいの評価である。

しかし、今の日本に彼らの息子や娘を留学させても、サムライにさせることも、大和撫子にさせることも出来無いのではないか。何故ならば、今の日本人自身がサムライではないし、むしろ教育を行う場所が、そうした精神を否定してしまっているからだ。

サムライが居て、そうした教育を行っている、とアメリカ人が思った日本には何もない。そうした現状を我々日本人が、世界の中で一番良く知っている。
実は僕にも、前述のアメリカ人のように、とあるものに憧れて、行ってみたら、噂とは全く違っていたという経験がある。

外でもない、国士の学び舎と言われる我が母校・国士舘大学である。本や知人たちの噂では、まさに国士が集う場所であり、国士を育成する場所であるかと思った。
しかし、いざ入学してみると、この皇国史観研究会があるのみで、あとは全く普通の渋谷の住人のような学生と支那・朝鮮の留学生がウヨウヨしており、教壇では反日左翼教師すらも教鞭を執り、学校側は事なかれ主義と営利至上主義にまみれているという現状であった。北京とソウルとモスクワと渋谷を鍋に放り込んだような最悪のカオスを想像していただければいいだろう。

むろん、先輩や職員の方々の中には、まさに国士と呼ぶべき方々は大勢おられ、国士舘らしさを感じさせる学校行事はいくつかあったが、それでも期待と現実との差にガッカリしたものである。サムライの国として憧れる日本、国士の学び舎として一目置かれる国士舘、しかしその認識と現実の違いを、僕は肌身に感じている。このサムライ=国士が不在の構造こそが、戦後体制の一つの現れではないだろうか。

我々がしなければならない事とは、こうした周囲の認識と現実との溝を埋める作業、すなわち国士舘を国士舘たらしめる事であり、ひいては日本全国に国士を広め、誇り高き国、サムライの守る国、 天皇国日本の真姿を顕現することにある。
その日本の真姿顕現闘争の最前線に我々は立ちたい。そうした意味で言えば、「ラストサムライ」を乗り越えて、「永遠のサムライ」をつくり続ける運動が求められている。

皇国史観研究会代表 タカユキ
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by shikisima594 | 2005-12-14 13:32 | 随想・雑記
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