『日本人の歴史哲学』
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予想はしていたが、矢張り凄い本である。
この度、我々皇国史観研究会の盟友ともいうべき磐南総合研究会の代表岩田温氏により『日本人の歴史哲学』という本が展転社から出版された。

その内容たるや大胆にして緻密。論理的実証的構成に徹して居るが、筆者の祖国日本に対する熱く溢れんばかり情熱的愛国心によって綴られて居る。
劈頭に長谷川三千子先生による推薦の辞があるが、読了して頭をよぎった感慨は、まさに長谷川先生が書かれていた前述のようなものであった。

三島由紀夫に始まり、ヘーゲル、デカルト、本居宣長、ホッブズ、長谷川三千子、プラトン、西郷隆盛、バーク、葦津珍彦、江藤淳、モンテスキュー、そして大東亜戦争に散華された特攻隊員等の古今東西の様々な人物の膨大な言動の中から、示唆に富む物を摘出し、読者に解り易く示す。この言葉を掴み出す筆者の才覚に、誰もが驚かされる筈である。  

僕は、ヘーゲル、デカルトなどの名前が目次に有っただけで読むのを躊躇う人間であるが、その様な僕も興味を持って、理解と共に読み進めざるを得ない構成になって居る。何故なら、本文の随所でなされる筆者の問いかけが、新鮮且つ斬新な観点であり、その論理の実証は読む者を惹き付けて止まない。例えば、以下に僕の心に残った箇所の一部を引用する。

「歴史」が何らかの価値観によって取捨選択され、創出されるものであるとすれば、この価値観を歴史哲学であるといえよう。そしてわが国が本当に取り戻すべきは、この歴史哲学であったのではなかろうか。歴史を叙述する際の根幹とでも言うべき日本人の歴史哲学が語られることのないままに、戦後六十年の歳月が過ぎ去っていったのではないか。(22頁)  

まさに「歴史」とは、筆者が強く指摘する様に、何らかの価値観に依て取捨選択が行はれなければ、「歴史」とは成らない。大東亜戦争後、その「歴史哲学」を欠いて書かれ、我々若者が学校で学んで来たものは、無味乾燥な「事実らしき物」の羅列で埋め尽くされた「歴史もどき」であった。しかし、そのような「歴史もどき」などに如何程の価値があると言うのか。

 「歴史」とは、そこに何らかの明確な、国ならば国としての価値観が無ければならない。そうしてこそ、初めて「歴史」は「歴史」たり得、その「歴史」を共有する共同体の構成員は、真の意味で、その共同体の構成員となるのではなかろうか。この視点は我々が皇国史観研究会の会員として皇国史観の研究にあたる上で決して忘れてはならない視点である。

では、その日本の歴史を綴り、我々の準拠するべき価値観である「歴史哲学」とは何か、という事を筆者は詳細に論じて行く。今の歴史教科書を読んでも、西郷隆盛、特攻隊員などの偉人は皆悉く「点」にしか過ぎない。これらの点を線で繋ぎ合わせるのが「歴史観」である。筆者はこれらの点を線で繋ぎ合わせるのみではなく、古今東西の先賢の言葉を用いて、「歴史哲学」という国史の大河の一端を見事に、読者に見せつけ、それに留まらず、垂直的共同体としての国家の存在を照らし出したのである。  

特に、「現在、身を以って祖国を救わんとした殉国の英霊たちの死が犬死にであるならば、その責めを負わねばならないのは先人ではなく現代に生きる我らである。」(205頁) との指摘は、鋭く重たい。この事実を胸に、今の我々は気を引き締めて生きて行かねばならないとの思いを強くする。

皇国史観研究会代表 タカユキ


展転社の紹介サイト
http://tendensha.co.jp/daitoa/dai276.html
磐南総合研究会HP
http://www.wadachi.jp/
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by shikisima594 | 2005-12-19 12:44 | 読書録
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