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日本の国家制度と主体性 第四回 律令国家
 これまで見てきたのは、日本の歴史の中で、特に武士が国政の中心を担っていた時代であった。この時代は、わが国が西洋の影響を受け、近代国家として現在の状態につながってくる直前まで続いてきた。直前にあった江戸時代は、わが国は技術や産業を発達させ、一つの独立した社会を形成していたし、その安定性については、三百年の平和の時代といわれ、しばしば政治学のような学界においても、善政の見本として言及されている。

 しかしながら本稿では、わが国が天皇陛下と皇統をはじめとする朝廷の国家であるということを前提に話をすすめてきた。これは、わが国の当初からの目的であったといわれる。これまで見てきたのは、じつはこの政治形式が、武家の時代をも覆っているということであった。武家はあくまで従の立場であって、それに対しては朝廷は主の立場であったのだ。つまり、本来朝廷の直接の政治、ご親政がわが国の政治体制として正しいといえるのである。

 さて、今回話題にしたいのは、幕府以前の政体についてである。この時代は、このご親政が続いていた時代であるとされ、また、現在の西洋型歴史学においては、この時代はまさに、あとの日本国の基礎を築いた、日本史の曙として扱われる時代である。

 幕府以前の日本がどれだけ遡れるかは、歴史学では大体定説があって、西暦の三世紀ころだとされている。けれども、もっと明確に記録に残っているわが国の政治についていえば、古墳時代の終わりから飛鳥時代にかけての期間が問題となる。この時代に始まったのが、律令制度である。

 この律令制度とは、簡単に言えば古代支那を標準と見た政治システムで、社会階級と法制度、ある種の政府組織を特徴としている。この受け入れは、歴史学の視点では、当時の国際的な法体系の採用により、日本が明確に規定した最初の国家体制の確立という事件とみなされる。日本国の曙とみなされるゆえんである。

 日本はこの際、ただ中華帝国の形式を研究し、模倣しただけに終わらなかった。ここで特筆するべき事項は二つある。ひとつは、天皇を中心とする国家のシステムについて、もう一つは、わが国が帝国であるという証明につながる、事件と制度である。

 朝廷は、そもそも王権である。律令国家とは当時の東アジア地域での標準として扱われた、支那の諸王朝を規範とする。この諸王朝は、直轄地と、周辺の諸王国を統括することによって成り立っており、王の中の王として、その国主が君臨することによってなる、典型的な帝国であった。

 そして、この体制に習ったわが国でも同じ体制がとられた。この時とった策が、今もなお有効であるという、この社会の法学的建前を言えば、我らの国土は、人民は、実に天皇陛下の所有物と考えることが出来る。大日本帝国の時代、わが国の国民は「人民」でも「民衆」でもなく「臣民」と呼ばれた。この事実は、まさにこの歴史事件に由来しているのである。

 そして、わが国が帝国であるわけも付け加えよう。わが国は当初、一体ではなかった。これは次回詳しく述べるが、律令国家による中央集権化以前には封建的な連邦体制であった。これらには、独自の王がいたので、天皇は律令体制以前から紛れもなく、王の統治者、つまり皇帝であった。「王(キミ)」と「大王(オホキミ)」という言葉が、それが当初からのものであったことをよくあらわしている。

 律令革命では、その体制が明文化された。外国にもそれらがアピールされやすくなったのである。同時に、例えばわが国は、元号を独自に制定することにした。平成の現在、その制度が今も動き続けていることに、改めて注目願う所存だ。これが何を表していたのかといえば、わが国は支那王朝の帝国とは別な体系を持つという示威行為である。つまり、わが国は支那と対等な帝国であるという意思の表明であったわけである。

 現在もこの体制は存続している。わが国は、現在世界最古の帝国なのである。

 文責 ムネカミ

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by shikisima594 | 2006-04-11 11:44 | 随想・雑記
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