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特高警察の守ろうとしたもの 第三回 特高の誕生と活動
 明治43年に社会主義者の幸徳秋水らが明治天皇暗殺を計画した大逆事件の翌年、それまで政治情報の収集にあたっていた高等課を強化し、警視庁に特別高等課が設置された。

 大逆事件で取り締まられ、風前の灯火と化していた日本の社会主義運動は、第一次大戦と世界恐慌による国内のインフレ騒動、ロシア革命による世界初の社会主義国ソビエト連邦の成立と、ソビエトと日本の国交樹立(大正14年)などの影響を受けて次第に活発化し、大正11年に日本共産党の創設と活動の活発化に伴って勢力を拡大した。一説には、学者や青年、学生、工場労働者を中心に80万人とも言われる一大勢力となった。それにあわせて特高課は内務省の警備局保安課を頂点として全国に配置されるようになった。

 昭和3年には日本全国の警察署に特高課が設置された。特高の組織構造で特異な点は、地方長官や警察部長などを通さず、内務省警備保安課の直接指揮下に置かれた点である。つまり、普通の地方警察と異なり、直接、内務省と結びついた国家警察であった。

 昭和6年9月18日に満州事変が勃発すると、国内には激烈な国家主義、民族主義の機運が高揚した。この時のことを、マルクス主義を信奉していた一人の青年は次のように述懐している。

「私は事変のニュースを聞いた瞬間に、自分でも想像したことのない強烈な愛国心の灼熱を感じた。同時に、国軍というものの頼もしさに感激し、これで日本は変る、明るくなると直感した。翌日学校へ行くと、これまで全く無関心だった連中がみな昂奮して、異口同音に関東軍を讃え、満州蒙古を守れと云う。」
(中村武彦『私の昭和史』18頁)

 このような時代風潮の中、昭和7年には、政財界要人を暗殺する血盟団事件、海軍将校達が犬養主将を射殺した5・15事件、翌年には首相官邸などへの空爆と重要閣僚の殺害を企画した神兵隊事件などの国家主義革新を目的としたテロルが多数発生し、特高も更に組織を拡大し、右翼への監視と取締りを強化してゆく。

 その組織構成は、全国の中で最大の規模を有し、特高警察機構の中心であった警視庁の昭和11年以降の組織に限って言えば、その構成は、特別高等警察部のもとに、思想や社会運動を取り締まる、約100名の人員を擁する特別高等課があり、その中に共産主義運動を取り締まる特高一係と国家主義運動を取り締まる特高二係があった。この点などは今の警視庁公安部とほぼ同じ形態である。

 そして、朝鮮独立運動を取り締まる内鮮課が60名ほど、外国人の思想運動やテロ・スパイ行為を取り締まる外事課が80名、過激な労働運動を取り締まる労働課、そして労使紛争が紛糾した時に調停に入る調停課が10名、雑誌や書籍などに法律に触れる記述や表現が無いかを監視する検閲課が37名といった構成であった。

 では、以上のように誕生し、成長してきた特高が、どのような理念に基づいて活動してきたかを見て行く。

 特高警察官の行動理念となったのは、「特別高等警察執務心得」という規則である。ここには、特高警察の定義として、「国家存立ノ根本ヲ破壊シ若ハ社会ノ安寧秩序ヲ撹乱セムトスルガ如キ各種社会運動ヲ防止鎮圧スルヲ以テ主タル任務トス」と記されている。

 特高は一般の警察官と同様の服務規律と諸法規をもとに活動していたが、その中でも、特高警察官だけには、設立直後から以下のような注意と訓示が行われた。

「『思想そのものを、徒に弾圧しないこと。思想そのものに容喙するのが特高の任務ではないこと。思想から生じて治安を撹乱しようとする行為そのものだけを取締りの対象とするものであること。』が、いつも教え込まれた。(中略)『特高警察は、一政府の機関ではない。日本国家の機関であり、国家の治安を維持することが任務である。』と、教えられて、時の政府の政治に左右されるな、との信念を持つように教育された。」
(小林五郎『特高警察秘録』190〜191頁)

 思想や政治の動向に関連する犯罪を取り締まる特高が、時の政府権力の行う政治に恣意的に運用されるのではないか、つまりは政体の尖兵と化すのではないかという危惧は、設立の当初からなされており、その批判を否定するためにも、設立当初は上記のように特定の党や階級に偏る事の無い不偏不党の訓示が盛んに行われ、そのような訓示と同時に、前述したように、内容はさて置き、国体を守るべし、との訓示も行われた。

 しかし、実際は政権政党が変わる度に、全国で多くの警察署長が変わっている。政友会犬養毅内閣が成立するや、458人の警察所長の首が挿げ替えられている。この悪習は昭和10年以降に改められていったが、警察自体が政府の政治に左右させる傾向は続いた。

 特高は何か事件が発生すると、普段から監視している、まだ何もしていない要視察人まで予防検束した。酷いものでは、東京で事件が起きた時、九州に居た何も知らない要視察人が予防検束されるという事態も起きた。極端な例では、与謝野晶子の詩集を所持し、その中の「君死にたまふことなかれ」の箇所に傍線を引いていただけで、特高に検束されて取り調べを受けた少女がいる。このことからしても、「思想そのものを、徒に弾圧しないこと」というのが、単なる建前であると分かる。

 また、特高は労働争議・小作争議などに介入し、物理的強制力により、争議の調停を行った。中には資本家・地主から報酬などを受け取る特高幹部もいた。

 更に、大東亜戦争が始まるや、特高は取締り範囲を拡大し、それまで問題にならなかった言論・表現も取締り、政府に批判的な自由主義者も逮捕した。選挙にも干渉を強め、政府が推薦した候補と対立する候補に対して、選挙委員の逮捕などの妨害を行ったり、投票所入り口に張り込んで有権者に、推薦候補に投票するよう威嚇したりした。

 軍人や政治家の有力者の中でも、特高の監視が付けられた。一例を上げれば、関東軍参謀だった石原莞爾、国会議員で東方同志会を主宰していた中野正剛である。両者は時の東条内閣を痛烈に批判していた。

 これらのことからしても、特高警察は「一政府」の機関であり、時の政府の政治に左右された事は明白である。


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by shikisima594 | 2006-05-02 15:38 | 随想・雑記
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