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『葉隠入門』
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 映画「ラストサムライ」の放映以来、武士道への興味が高まった。あの時は便乗本がたくさん出た。特に新渡戸稲造の『武士道』が多く出回ったみたいだった。でも、新渡戸稲造ってのは外国事情には詳しかったけど、自国の事には詳しくなかったんだな。

 そもそも、新渡戸稲造が『武士道』を書いたのは、外国人から「君の国にはどんな道徳律があるの?」と聞かれて自分でも分からなかったことが原因らしい。だから、新渡戸稲造の『武士道』には武士道の代表的著作と言われる『葉隠』が出てこない。

 じゃあ『葉隠』って何だ、『武士道』の新渡戸稲造は武士じゃなかったけど、『葉隠』を口述した山本常朝は江戸時代の佐賀藩鍋島家に仕え、主君が死んだ時には、それに殉死しようとまでしたホンモノの武士。

 その『葉隠』を昭和のサムライ三島由紀夫が解説するというのだから、何とも贅沢な本だ。題して『葉隠入門』(新潮社)。三島由紀夫は自分の『葉隠』に対する考えを次のように述べている。

「戦争中から戦後にかけて一貫する自分の最後のよりどころは、何であろうかと考えた。それはマルクスの『資本論』でもなく、また教育勅語でもなかった。その一貫するわたしを支える本こそ、わたしのモラルのもととなり、同時にわたしの独自の青春をまるごと是認するものでなければならなかった。のみならず、それは時代にとって禁断の書であるべきであった。『葉隠』はこのあらゆる要請にこたえていた。」(9頁)

 あの三島由紀夫が青春期から『葉隠』を自分の拠り所としていたのなら、あの昭和四十五年十一月二十五日の市ヶ谷における最期の瞬間に、『葉隠』書中の「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」が重なってくる。この辺が、さすが三島らしい。

 さて、この「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」というのは結構有名だから知っている人も多いと思う。別にこれは「死ね!」って言っているんじゃない。死と向き合う事により生が充実する。そして生が充実することにより、粛々として死に赴く事も出来る。そんな境地じゃないだろうか。

 しかし、この『葉隠』が凄いのは、同僚にどうやって注意をするか、アクビをしない方法、死ぬ時の格好、酒の席での振る舞い方などなど……事細かに書いている。そして、その山本常朝の考えに対する三島由紀夫の解説も冴えている。

 「人間一生誠に纔の事なり。好いた事をして暮すべきなり。夢の間の世の中に、すかぬ事ばかりして苦を見て暮すは愚(おろか)なることなり。この事は、悪しく聞いては害になる事故、若き衆などへ終に語らぬ奥の手なり。我は寝る事が好きなり。今の境界相応に、いよいよ禁足して、寝て暮すべしと思ふなり。」(172頁)

 『葉隠』は堅苦しい本に思われがちだ。実際、堅苦しい。サヨクの連中は封建道徳と罵倒する。確かにその一部は封建道徳かもしれない。しかし、上記のように『葉隠』の中には山本常朝の本音がポロリと出ている。寝る事が好きだから寝ていたい。僕と同じだ。こんな本音が出てくるあたりが『葉隠』のおもしろいところだ。

 だけど、少し考えを深めてみると、この寝ていたいというのは、したい事だ。冒頭の「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」は、しなければならない事だ。この対極にあるような思いを、死と向き合う事による生の充実の中で一体化させる。つまり、したい事としなければならない事を同一にするのが武士道ではないのかな〜と、しばし愚考してしまった。

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by shikisima594 | 2006-05-18 11:25 | 読書録
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