本日は平泉澄『国史学の骨髄』(錦正社平成元年十月)より収録されている、『一の精神を欠く』を取り上げたいと思います。
『国史学の骨髄』とは、平泉先生が書き上げた論文の中で御自身が選ばれた十二篇を挙げて編集されたものです。『一の精神を欠く』はその中の一篇に収められております。はしがきにて御本人が「文は(略)其の間に直接の連絡はありませんが、精神に至っては自ら之を貫くものがあります。」と書かれている通り、どの文章にも平泉先生の歴史を通して体得せられた真摯な姿勢と情熱が籠められております。 この『一の精神を欠く』は昭和四年、平泉先生三十五歳の時に書かれた文であります。昭和四年といえば平泉先生が欧州留学される一年前であり満州事変が起こる二年前でもあります。 何故この一篇を選んだかと申しますと、この題名に注目したからであります。この文より平泉先生が教育界に足りないと訴えた「精神」とは何かを捉えることが出来たなら、それは平泉先生が「精神に至っては自ら之を貫くものがあります。」と書かれた平泉先生の「精神」の一端が明らかになるやも知れないと思ったからです。 そして『少年日本史(現在は物語日本史)』・『国史学の骨髄』・『歴史に於ける真と実』などなど、平泉先生が書かれた有名な論文は数あれど、この『一の精神を欠く』は今ひとつ取り上げられる機会が少ないと感じ、ここに挙げる事によって皆様に御紹介させて頂こうと考えた訳であります。 さて、本文は全六項と他のものより大分少なく纏められております。しかし短いという事それは冗長にならず平泉先生の考えがより分かり易くなっている事であると思います。ではさっそく見てみましょう。 まず平泉先生は現在の科目には中心が無く、各方面に智識を得、技術を得てこれを統率する力が必要である事、そしてその統率と中心を担うのは歴史であると訴えます。その歴史とは何なのでしょうか。 「但しこゝにいふ歴史は、我国の歴史である事いふまでもない。我々日本人にとつては我が日本の歴史こそ、本当の歴史なのである。勿論外国の歴史の知識が大切である事、従つてそれも学ばねばならない事はいふまでもないとして、その外国の歴史といふものは、国史とはすつかりちがった性質のものであり、ちがつた価値をもち、ちがつた意義をもつものである。」(百四十一項) 余りにも当たり前の事と存じますが、教科書問題に関心を寄せて近年の動向を注目していらっしゃる方、弊会ブログにて「『反米論を撃つ』を撃つ」などを御覧戴いていた方には思う所の有る箇所であると思います。 日本人でありながら中国の見方に偏っている。かと思えば今度はアメリカの方に偏って、あろう事かアメリカの視点で日本の歴史を語る評論家・教育者が多数いるのが現状です。 当然平泉先生が指摘された昭和四年から情勢は違います。しかし勉学を進めるに従い自分が何によって形成され何に根付いているかを見失ってしまった方々がいらっしゃったという事情は当時も変わらないのでしょうか。平泉先生がわざわざここで言及されているという事はそんな意味もあるのでしょう。 平泉先生は歴史を「日本人をして真の日本人たらしむるもの」であり、国民教育の中心であると位置付けております。ところが「重大なる任務をになふ」国民教育は甚だしい欠陥をもっていると衝きます。それは国民教育で教えられる歴史が「年表的ぬきがき」に「僅な文化事象を、ほんの申訳に」加えた「形ばかりの化粧を施したような」歴史であり、これでは「日本の歴史への深い意義」とその中に自分の本当の姿を見出していく事が出来ないばかりか、かえって歴史を軽んじる人間を生んでしまうと説きます。また先賢の「至誠ある学問への態度」・その「先賢への尊敬の態度」が欠落している事を挙げられ、これが無くては真に歴史を悟る事は出来ないと述べております。 「年表的ぬきがき」の歴史。「ほんの申訳に」出てくる文化史。現在の教科書にも指摘されている問題点が実は相当に根深い歴史を持っている事を表す一端でしょう。「○○年に××事件がおきました。この事で何某は云々。」だから何なのでしょうか。「○○には××の様式を持った文化が栄えました。」だから何なのでしょうか。私達は本当はその事象から歴史の深い意義と先人の苦労、そしてそれを支えた精神というものを汲み取らねばならないのです。上記の調子の教育では普通に読み進めていった限り、歴史は「はあ左様でございますか。」と記憶にも残らない退屈至極の報告書の様なものになってしまう事でしょう。平泉先生はそれを戒めているのだと思います。 それでは、題名にもなっている「一の精神」とは一体何なのでしょう。教育に欠けているものはなんでしょう。「先賢への尊敬の態度」でしょうか。「至誠ある学問への態度」でしょうか。はたまた「日本の歴史への深い意義」を感じ取る事でしょうか。私はここに挙げた三つはいわば「手段」であると思うのです。「日本の歴史への深い意義」を感じ取る事も飽くまで「手段」なのです。ただ感じ入っているだけでは駄目なのです。それでは歴史は年代物の骨董品に成り果てます。 この三つを縄の如くより合わせて導かなければならない事、本当に教育に欠けているもの、それは自分の「使命」を見出す事ではないでしょうか。自分が今この日本に生まれてきた事の意味と言い換えても良いと思います。この「使命」を見出す事によって日本人は「真の日本人」となる事が出来るのではないでしょうか。 吉田松陰先生はその良い例であると思います。驕る事無く真摯に学び、とうとう「志士」としての使命を導き出しました。そして松下村塾を開かれたのです。門下生が多く国士と讃えられるのは吉田松陰先生御自身が、三つの手段を寄り合わせて自身の使命を導き出し、教育の淵源を悟られたからでしょう。 「学は人たる所以を学ぶなり」(松下村塾記)と書かれたのは正にこれを証明するものだと思います。 平泉先生がこの文を書かれて早七十七年が経ちます。ところが事情は違えども、教育で見失ってしまっている事は今も当時もさして変わっていないのではないかと思いました。日本の歴史教育は実にこの「一の精神(=使命)」を見出す教育に立ち返るべきでしょう。さもなくば「歴史教育は畢竟無用の長物」になってしまうのです。 文責:皇国史観研究会会員 彩の國 応援のクリックを!
by shikisima594
| 2006-06-08 00:02
| 読書録
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