6月17日皇国史観研究会定例勉強会
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 さる六月十七日午後より国士舘大学世田谷学舎に於いて、皇国史観研究会の定例勉強会が開かれました。先週に引き続き平泉澄『物語日本史』(講談社学術文庫平成十二年)より、今回は中巻を取り上げました。
 「子孫もまたこの精神を継承して進むことを期待」されつつ筆を取られた平泉澄先生の歴史をどの様に読み取るべきなのか。特に会長より発表がありましたので以下に主旨を掲載致します。

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 中世とは戦の絶えない世であった。その中には保元の乱といった皇族同士の血生臭い権力争いも含まれる。この様な時代は徒に皇室を賛美せんとする者には甚だ不都合な時代であり、ともすれば抹殺されてしまう時代でもある。しかし平泉先生は決してこの時代を隠そうとはしなかった。この様な不幸な事になってしまったのは皇室と、その取り巻きの権力者達の至らぬ所が会った為としたためている。戦後左翼勢力はこの皇室の争いを論い、「皇室の何処に讃える根拠があるのか」と主張した。

 しかし着目すべき大事な事は、その過去の歴史的事実の反省を踏まえて、そこからどの様に発展してきたかというところなのである。人間にしても小さい頃には過ちを起こすものであり、それをしない様にするのが成長であり発展である。これは国家にも言える訳であり大切な視点である。

 人間は生まれた時は罪も穢れも無い。アメリカやイスラエルといった人工的に作ってしまった国家は別として、日本を始めとした古き国・自然発生的に成立した国家は、生まれたばかりの人間と同じく罪が無いのである。日本は天壌無窮の神勅に表される様に神の祝福を受けて理想として誕生した。その経緯を描いたのが上巻である。その後、過ちを描いたのがこの中巻である。そしてその過ちから罪の無い時代に立ち返ろうとする。日本が立ち返るべき時代とは、神の意志のままに作られた神代の時代である。それを成し遂げようとしたのが明治維新であり、下巻にあたるのである。明治維新後は近代合理主義を無批判に受け入れ続けてしまった。その過ちを正し、初めに戻ろうとしたのが昭和維新運動である。過ちを犯してしまう動きとその過ちを乗り越え初めに戻ろうとする動き、この双方の相克が歴史を紡いでいく。その中で我々が目指すべきは初めの精神に基づいて未来を作ろうとする立場なのではないだろうか。

 壇ノ浦の戦いでは三種の神器の内、天叢雲の剣が失われたと言われ平泉先生もこれに拠っている。これを以って「三種の神器は神より賜ったものである。之が失われたとは皇室の神性・正当性に疑問がでる」
と声を上げる者がいる。これは過ちである。神から賜ったからには大切なものではあるが、刀にしても勾玉ににしても、また鏡にしてもこれは実際に私用品・実用品として使うものではない。三種の神器とは天皇陛下がこの世を治しめる精神を、この世の「形あるもの」として具現化したものである。だから現在でも天叢雲の剣については代用で足りるわけである。実際にそれでなくてはいけないとは必ずしも言えない。三種の神器の意味するところが大事なのである。それを我々は汲み取らねばならない。源平・吉野朝はそれそのものに神秘的な力を認めていた様である。


 「平家にあらずんば人にあらず」とまで言われる程に栄華を誇った平家。上皇を幽閉奉るなどの行為は今でも逆賊と言われる。しかしここに平重盛という人物は清盛に対し果敢にその行為を諌めた。また強訴の僧兵に対しては弓矢を以ってこれに答えた。平清盛は増長があったが平重盛という存在があったため一定のところで留まったのである。これは日本の政治を治める上でも安定点になっていたのである。一人の人間の及ぼす影響は実に大きいものがある。この様に描き出すのは平泉史学の特色であろう。

 大きい影響を及ぼした中世の人間といえば、北条時宗も忘れてはならない。時宗は僅か年十七で政治の実権を握ることになった。彼が二十歳の時に日本に迫ってきたのが「元」である。元は度重なる侵略によって空前の大帝国を築き上げていた。元の侵略は東ヨーロッパ地域も例外にはならなかった。元軍とその暴虐を目の当たりにした東ヨーロッパの人々は、元の衣服や髪型等を真似して阿り、生き残りを図っていた。元の襲来は日本にも大変な衝撃であった。しかし朝廷と時宗はその様な真似はしなかった。元の無礼な使いの首を切り日本の気概を示したのであった。二十足らずで日本の運命をその双肩にかけた北条時宗の精神は、その遺訓は藤田東湖先生の『正気の詩』にも詠われ永く語り継がれているのである。

 文永の役・弘安の役での鎌倉武士の働きを忘れてはいけない。弘安の役では約十万人の軍が来襲したという。空前の大帝国を築いた強力な軍が攻めて来たのである。大東亜戦争末期の硫黄島の血戦でも十万人は出ていない。その大軍勢を武士達は勇猛果敢に迎え撃ったのである。その御蔭で元軍を上陸させない内に台風がやってきて、元軍は海の藻屑と消え去った。東ヨーロッパの様に元の真似事をしていたらどうなっていただろうか?武士達が戦わずにいたらどうなっていただろうか?元はいとも簡単に上陸していただろう。上陸した軍勢には台風など何の問題も無い。武士達が果敢に戦い元を再び船に押し戻していたからこそ、元軍は台風によって大被害を受けた。上陸させまいとした日本人の力によって台風が神風になったのである。神風は起きるものではない、起こすものなのである。


 またもう一例、一人の人間を挙げる。足利高氏である。名前を見て不審に思われた方も居るかもしれない。今現在、教科書をはじめ一般には「尊氏」と書かれていることが多い。「尊氏」とは、恩賞を欲しがった足利高氏に後醍醐天皇が自らの御名「尊治(たかはる)」から取って与えた字なのである。これをはじめ、他にも恩恵を蒙っていたにもかかわらず、その後公然と朝廷に刃をむけたのである。この行為は逆賊と言う他無く、後醍醐天皇の御名、「尊い」などという字はとても使えたものではない。平泉澄先生をはじめ皇国史学をとる方々はいずれも「高氏」を使っている。

 なお弊会も勿論「高氏」の方を採用している。

 高氏擁護の意見として高氏は後に、後醍醐天皇を弔う為に天龍寺という立派な寺を作ったのだから良いではないかというのがある。ところが良く考えて頂きたい。恨みを以って死んだ人間は悪霊になると今でも信じられている。菅原道真が左遷されて後に雷神となって祟ったという話しは有名である。日本を自分の国として治めようとしている中で後醍醐天皇の霊が現れて、祟られたのではたまったものではないと高氏は考え、弔う為の寺を立てさせたのである。しかもそれは純粋に慰めようという気持ちの上ではない。逆らった自分を恨んで悪霊となって出てくるであろう後醍醐天皇の霊を封印する為に立てたのである。寺の建立など結局自己保身の為でしかないのである。


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by shikisima594 | 2006-06-19 00:32 | 活動報告
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