『侍従長の遺言』
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 この『侍従長の遺言』という本は平成九年に朝日新聞社から刊行された。昭和天皇に五十年間仕えた徳川義寛侍従長が、朝日新聞の岩井克巳記者に語った昔話をまとめたものだ。一部の昭和史研究家が読んだ程度ですぐに忘れられてしまった本で、初版のみで増刷も出ていないようだ。

 ところが、この本が刊行から十年近くたった今年の夏に、世間の注目を浴びる事になる。一旦は歴史の彼方に忘れ去られていた本が絶大な注目を浴びるようになったのは、一枚のメモからだった。七月二十日、日本経済新聞が宮内庁長官だった富田朝彦氏が遺していたメモに、昭和天皇がいわゆるA級戦犯の靖国神社合祀に不快感をお持ちであったと報じたからだ。

 ところが、この『侍従長の遺言』で徳川氏が靖国神社について語った言葉が、日経が昭和天皇のご発言として報じた富田メモと余りにも酷似しており、メモに書かれた「私」が誰であるのかという議論が起き、徳川侍従長説が登場することになる。

 それを受けて、当初は「昭和天皇の発言」としていたマスコミも、「昭和天皇の発言とされる」という風に意味に含みを持たせた報道に切り替えざるを得なくなった。肝心の『侍従長の遺言』だが、書店に行ってもおいてなく、古本屋を探しまわってやっとこさ見つけた。

 これは徳川氏が岩井記者に語った事を岩井記者がまとめたもので、録音が許されなかったため独特の構成になっている。徳川氏の語りの部分と、それに対する岩井記者の解説部分を読み比べると、岩井記者の主観がそれなりに混ざっていると感じる。

 取材は平成六年一月から平成七年の暮れまでの約二年間にわたって行われている。富田メモが書かれたとされるのが昭和六十三年四月二十八日。富田メモが取られてから六年後にこの本の取材が行われているのだ。

 徳川氏は寡黙な人と評されていたらしい。徳川家の末裔で明治生まれだけあって、誠実で剛直な人柄が垣間見える。ただ、この本を一読した限りでは普通の昔語りの好きな老人といった印象を受ける。特に美術や西洋哲学に造詣が深く、饒舌に語っている。

 徳川氏の話し方は独特だ。侍従長という特殊で重大な責務のある仕事柄、語り口は遠回しだったり、重要な事なのに口に出さなかったりする場所が何カ所もある。冒頭、若くしてドイツの大学に留学した時の事を語っているが、当時のドイツはヒトラー政権下だったが、徳川氏はそれを苦々しく思っていたようだ。そこで松岡洋右を批判している。

「(昭和八年の日本が国際連盟を脱退した際)松岡全権が見栄を切って。私の周りでは評判悪かったですね。英米を敵に回しちゃあ無理ですよ。
 松岡洋右さんはエキセントリックな人でしたね。」(20頁)

 徳川氏は松岡洋右と日独伊三国同盟については批判的であった。その点は昭和天皇と同じだが、徳川氏は軍人嫌いであった。松岡洋右や当時の軍人への批判的立場は全章通じて一貫している。

 敗戦の八月十五日。降伏に反対する近衛師団将校らが玉音盤を奪おうとし、その中の軍人に徳川氏は斬ると脅され、殴り倒されている。この時に徳川氏を殴った軍人が後年になって家宝の古鏡を溶かしてつくった茶釜をお詫びに持って来たことも語っている。

 しかし、その茶釜は一切、使われていない。その事に言及していないところに徳川氏の軍人に対する深い不信感と嫌悪感が表されている。徳川氏の息子である徳川義眞氏も今年八月十日付けの週刊新潮で「たしかに父は、軍人が嫌いでした。特に第二次世界大戦の頃は軍人が威張ってましたから。」と証言している。

 また、徳川氏は戦争放棄・戦力の不保持が定められた日本国憲法についても言及し、「私個人としては、今の憲法は変える必要はないと思いますね。」(149頁)と明確に語っている。これには徳川氏の先の戦争や軍人に対する思いが込められているのだろう。ところで富田メモの当該箇所には、

私は或る時に、A級が合祀され
その上松岡、白取までもが、
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司はどう考えたのか 易々と
松平は平和に強い考があったと思うのに
親の心子知らずと思っている
だから私あれ以来参拝していない。
それが私の心だ

と書かれている。これに対して『侍従長の遺言』には、

「私は、東条さんら軍人で死刑になった人はともかく、 松岡洋右さんのように、軍人でもなく、死刑にもならなかった人も合祀するのはおかしいのじゃないか、と言ったんです。」(181頁)

「しかし松岡さんはおかしい。松岡さんは病院で亡くなったんですから。
 それに靖国神社は元来、国を安らかにするつもりで奮戦して亡くなった人を祀るはずなのであって、国を危うきに至らしめたとされた人も合祀するのでは、異論も出るでしょう。筑波さんのように、慎重を期してそのまま延ばしておけばよかったんですよ」(182頁)

 富田メモと全く同一の論理構成になっている。この点について日本経済新聞社は「侍従長は天皇と一緒にいたから思考が同じになってもおかしくない」などと苦しい言い訳をしているが、この場合は徳川侍従長の発言と捉える方が自然だ。

 論理構成が同じだけではなく、拓殖大学前総長だった小田村四郎氏は徳川氏に会った際、しきりに「松平さんは親の心子知らずだ」と言っていたと証言している。いくら一緒にいても口癖や表現に用いる諺が同一になったり、批判対象者も同じになるとは考え難い。

 これは靖国神社についての徳川氏の証言にあるもので、岩井記者は解説の項目で「天皇が『今後参拝せず』の意向を示したのは、A級戦犯合祀が報道され、内外の批判が出る前からだったと証言する元宮内庁幹部もいる。」と付け加えている。

 事実、昭和天皇は五十一年十一月二十一日を最後に、靖国神社にも、それまで毎年行幸されていた各地の護国神社にも親拝されていない。いわゆるA級戦犯が合祀されたのが五十三年であり、この元宮内庁幹部の証言と一致する。

 ともあれ、昔語りの冗長な話の感は否めないが、昭和という一筋縄では行かない時代を先帝陛下と共に歩んだ侍従長の“遺言”は、富田メモに書かれた言葉に焦点を当てて読まなくても、一読しておく価値はあるだろう。

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by shikisima594 | 2006-09-26 00:43 | 読書録
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