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創価学会に対する個人的見解

 最初から私事みたいな話から始まって見ている方々には申し訳ございません。
 自分の住んでいる場所は創価学会の地区会館から徒歩1分もない場所に住んでおりまして、土曜日とかになると創価学会員がまるで角砂糖に集まる蟻のように会館に入っていく光景がよく見れます。

 また、自分の通っていた公立の小学校はその創価学会の地区会館から非常に近い場所に立っていました。当然、クラスメイトにも親とかが創価学会員であるという人が異常に多く、友達の家に遊びに行けば、創価学会の仏壇が置いてあるなんて家が相当あったことを覚えています。

 単にそれだけの話ですめばよかったのですが、小学生の時に友達だった人がどこから自分の電話番号を知ったのかはわからないが、自分に電話してきて今度会おうという話になり、そいつと会って話をしたら創価学会に入信しないかという話だったのです。

 創価学会はすばらしいとか池田先生は立派だとかどうでもいいくだらない話ばかり吹っかけてくるので、つい頭にきて今の創価学会の不当性と正当性を持ちたいのであるならばさっさと大石寺に頭を下げて、日蓮正宗の講に戻るべきではないのか?という論理を出していったら勝手に切れてしまったのです。

 たとえば、池田大作が仏陀の輪生した存在というのであるならばそれは真っ赤なうそである。それは、仏教の論理上では仏陀という存在は六道輪廻から外れた存在であるから。人間界に戻ってくるなんて絶対にありえない。そんな仏教的な常識の論理から外れた事を言う、仏教を基礎にしている宗教団体は偽者以外のなにさまでもないと言ったわけですね。

 それで切れた時の捨て台詞というのが、「お前みたいなやつに池田先生の偉大さなんてわからない」とはいてさっさと帰ってしまったのです。久しぶりに会って、こっちは今まで何があったのかとかよくある回想話がしたかっただけなのに勧誘みたいなことをしてきて、自分に都合が悪くなったら切れて帰ってしまうなんて最低という言葉以外に何が当てはまるのかがわからない。

 人は何かを信じることでしか生きることはできない。ただ、その信じたことがほかの人に迷惑をかけ、気分を悪くさせるものであるなら、それは間違いである。宗教はすべての人のためにあるならば、特定の人間にしか益を与えないという宗教は邪教以外の何様でもない。

 このような不当な宗教団体が存在することは宗教そのものに対しての侮辱であり、宗教そのものの歴史的意義と存在を脅かすものである。日本国は法的にも、社会的にも社会を脅かし、一般人を危険な目に合わせる団体をなぜ放置するのか?国家が本当に社会の安定を望むのであれば、このような危険な集団はさっさと潰すべきだ。


 文責 ○○おじさん

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by shikisima594 | 2006-11-24 04:07 | 随想・雑記
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