人気ブログランキング | 話題のタグを見る
「愛国」を疑え!
なんだか皇国史観研究会に似つかわしく無いタイトルに疑問を感じる向きもあるだろう。しかも昨日まで四回に亘って、『共産党宣言』の読書感想文を書いていたのだから尚更、「こいつらは愛国者を偽装した共産主義者だ!」と思う人も出て来るかもしれない。

今回書くのは、そうした認識にも関係する問題である。近年は愛国心・ナショナリズムが非常に高揚していると、メディア・マスコミなどで盛んに指摘されている。中国朝鮮のあからさまで辟易する様な内政干渉、拉致問題、領土紛争、アメリカの経済・政治に対する隠然とした圧力、またサッカーワールドカップに見られる様な形もあろう。香山リカに言わせればプチナショという人々の出現。

事実、我々皇国史観研究会も、前述のマスコミの指摘に比例するかの様に、最近は会員数を増やし、活動も活発になってきている。拙い物ではあるが、みなさんが今見ているブログのような物も形になってきている。

しかし、ここで自分が敢えて問題にしたいのは、そのように言われる「愛国」の中身を疑え、ということである。「愛国」もしくは、それらしき事を主張する者が全て、本物の愛国者であり、日本の保守であるか、という事を考えなければならない。

意外に思われるかもしれないが、かつては日本共産党も「愛国」という事を言っていた。そして最近でも、日本共産党の不破哲三氏と井上ひさし氏の『新日本共産党宣言』(光文社)で、不破氏は「日本が大好きです」と言って、文末の日付を元号で記している。また、浅間山荘事件で知られる極左の連合赤軍に合流した、京浜安保共闘のスローガンは「反米愛国」であった。

また、壷の販売といった霊感商法で有名な某教団の関係団体は、表面的には「反共愛国」のような事を言っている。先に紹介した『日本核武装の選択』の中川八洋氏の様な例もある。氏などは「保守」「愛国者」とされ、産經新聞社のオピニオン誌『正論』にも執筆している。

彼らが一様に口にする「愛国」という観念。これは果たして日本における思想の究極的リトマス紙たりえるのかという事を考えなければならない。 もし、「愛国」で思想的分類をするなら、日本は、ほとんど右も左も区別のつかない状況になってしまう。

まず、共産主義者において「国家」とは、人民を抑圧し搾取する権力機関であり、それは廃止されなければならないと考えているし、既存の社会体制を暴力的に転覆しようという考えが基本にある。彼らは日本の自然風土とそこに住む「人民」の共同体社会を愛しているにせよ、本質的には保守的思想から導き出される「愛国」とは大きな隔たりがある。また、中川八洋氏など、現在「保守」と分類されている者は確かに「反共」と「愛国」を口にするが、自分は中川氏に思想的共鳴を持つ事は無い。

むろん、世の中には日本を徹底的に憎悪する狂気の持ち主や、自分は国家にとらわれない地球市民であると言う脳内無国籍人種がおり、「愛国」という観念は一定の思想的リトマス紙になるのは確かであるが、日本においては未だ不十分に考えられる。

では、一体何を思想の踏み絵、リトマス紙とするかというと、自分は一に尊皇精神、二に歴史観であると思う。先の日本共産党、京浜安保共闘、某壷売り教団、中川八洋氏的保守主義者、またはサッカーワールドカップで騒ぐ者達には、この「尊皇精神」と「歴史観」というリトマス紙をつけてみれば、たちまち化けの皮が剥がれるであろう。こうした事から、愛国を疑えと言ったのである。

かつて三島由紀夫烈士が東大全共闘と討論したとき「諸君らが 天皇陛下と言えば我々は共闘できる!」と言ったという。 天皇という絶対的存在を見上げ、日本の正統な歴史観を堅持していれば、世間の様々な出来事と、それらの関係を見つめても、決して何事にもぶれる事はなくなるだろう。我々はそのためにも、日々研鑽を続けて行かねばならない。
by shikisima594 | 2006-01-19 11:59 | 随想・雑記
<< 1月20日、定例勉強会 共産党宣言を読む(最終回) >>