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反米論に告ぐ
 二六六六年七月二九日、この日、連合諸国の議場に、ある南米先住民族の声が響いた。
――帝国は真実を恐れており、独立した声を恐れています。それは我々を過激派と呼ぶのですが、彼らが過激派なのです。―― ウゴ・チャベス ベネズエラ共和国大統領 

 じつに、彼の指摘は多くの人々の、また多くの国の意見との接点に満ちていた。世界は反米の声を急速に受け入れるようになっている。急速に多極化への方向へ向かっている。
 彼が非難した「悪魔」は、米国の政権である。冷戦終了後の米国は、その力を思想と経済と技術と軍事の点から世界の流れをほぼ完全に掌握していた。ここに来て、そのうち思想と経済がほころび始めたのだろう。
 「中東民主化構想の破綻」、「南米の社会主義的方向への転換」、「保守的な欧州の政治的統合と米国離れ」「中華人民共和国の発展」「ロシアの経済成長」「アセアンの政治的進展」これらすべてが、アメリカの帝国主義を打ち砕く要素になっている。
 結局、これらのあたらしいブロック経済論が著しいのも、このアメリカの経済支配体制への明確な反動であり、しかも必然的な流れである。

 このあたりの説明に関しては、やや政治的な見解の相違から観測の違いも出ているが、つまるところ事実であると考える。アメリカ式経済は国民を二分する。そうした批判が世界各地で巻き起こり、反米思想の動力源になっている。我が国でも、それは同じことである。この世界の分極を喜ぶのが、世界の反米論者に共通しているところであろう。

 しかし、私はこうした見解から少し離れて考えている。というのも、どうにもこれらの批判は、元来主張の無い経済に偏りすぎていると思うからである。

 誤解のないように弁明するが、著者は米国型経済論と正面から対峙する経済論を持っている。民族は、全体の歩調をそろえ、相互扶助に基づく統一された経済的基盤を形成することが望ましいと考える。国際市場経済主義、個人の経営的権利の完全な保障などの思想は、ほぼ完全な敵である。つまり、私も米国型経済批判には大いに賛同に尽くしたいところであり、実際そうした批判は重要と考える。

 しかしながら、我々はそれと同じか、もしくはそれ以上のものを見ていないのではなかろうか。我々はある面において、主張を忘れてしまっているのではないかと、著者は見ている。

 国民国家の理想は、万邦平等である。国際法というのは問題も多いという指摘もあるところだが、国家が発達すれば当然できたものと考える。そこでは、一国一国は対等で、第三国から見ればその価値は同じである。少なくとも、そうあるべきだ。これは簡単な論理だ。これ以上簡単なことはないと思う。実は、主張の要はここにある。

 皆様に問わなければならないことがある。利益を全く計算にいれず考えて欲しい。

 〔イの国とロの国がある。どちらが損を被るべきか。〕

 果たして、回答する意味がなさそうな問題と思われるだろう。だが、その問題を具体的な要素に当てはめて考えてみると、以外に結果が分かれるのではなかろうか。

 〔フランスとジンバブウェ、どちらかが滅ばなければならないとしたら、どちらをとるか。〕
 〔オレゴン州とニューヨーク州では?〕
 〔メキシコとベリーズでは?〕

 純粋に、国民国家の理想を考えた場合、どちらか決めようがない、という思考をどこまでできるだろうか。それを平等に扱えることこそが、真の道義国家たる必須条件である。

 私は、国民国家の理想を守るという条件の上では、それらの国をそれぞれ平等にさいころでも振って切り捨てるだろう。厚かましい話で恐縮だが、著者はその平等観を持っているものと自負する。我々は、かくあらねばならないのだ。

 さて、質問の内容を変えてみよう。

 〔絞首刑に処されなければならないとき、どちらの国の元首がそうされるべきか。〕
 一、イ 二、ロ

 単純な二択の図式である。あなたは冷静に、どちらかを選ぶべきである。

 とはいっても、これだけで決められるわけは無い。ここには、我々が立つべき主張の手がかりが無いのである。
 ここで、我々はある必要に気がつく。この選択の基準をはかりかねた場合、ここで経済や利益の比重を計算するのが筋なのである。つまり、これらの推敲を通じることで、初めて今までの損得の計算が活きてくるのである。

 では問題である。
 〔絞首刑に処されなければならないとき、どちらの国の元首がそうされるべきか。〕〕
 一、大量破壊兵器を保有し、かつ世界中の異国を屈服させる構想のある国
 二、大量破壊兵器を保有せず、かつ世界中の異国を屈服させる構想のない国

 この問題には、少なくともこの単純論理の中で、明らかに正解が存在する。それが何であるのか、じっくり考えてみていただきたい。それが著者の考える、失われた視点である。

 反米論一般には、それが米国の侵略をくじく目的があることが共通する。しかし既存の主張では、野望の阻止は、野望の撲滅にはつながらないのである。ここには、真の平等を妨げようとする我々の感情が働いているのだ。ここに問題があると見てよいだろう。
 いかなる場合にも、ことは論理的に整理され、解決されるべきである。感情論は構わないが、単純な論理と単純な理想が優先されるのが筋ではないだろうか。

 ムネカミ

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by shikisima594 | 2007-01-10 23:58 | 随想・雑記
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