三島由紀夫『金閣寺』
f0018981_20493619.jpg 何人もの知り合いが、硬派な文学、憂国の作家の作品として挑戦しては、独特の言い回しと冗長な内容を前にして読了することなく散っていった。有名ではあるが取っ付きづらい作品、というのが自分の『金閣寺』に対して抱いていた先入観だった。

 正直言うと、この作品の序盤は至極冗長だった。その原因は恐らく、この中に出て来る「私」という一人称で語られる吃りの青年僧の語り調で話が進んで行くのだが、こいつがまた陰気な奴で全然感情移入できない。むろん三島由紀夫氏はそれも計算づくだったのかもしれないが。彼は云う、

「遠い田の面が日にきらめているのを見たりすれば、それは金閣の投影だと思った。山あいの朝陽の中から、金閣が朝空に聳えているのを私は見た。」

 その彼が自分のが金閣寺に火を放つまでの話なのだが、これはもう狂気だ。哲学的な次元にまで狂気のはらむ美しさと人間の葛藤を描いているのだ。彼は金閣を美そのものと信じている。思っているのでなく、信じているのだ。

 彼の持つ狂気が外部との関わりで徐々に露呈して行く苦悩を描いた陰鬱な話で、最初はなかなかページが進まなかったけど、後半はもう彼の心の闇に魂を持ってかれてしまいそうになった。ずっと終わりまで四時間ぐらい続けて読んでしまった。 それまで自分の心の拠り所であり、自分を束縛し続けた金閣を燃やそうと決意した彼は、

「世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない」

 というふうに金閣寺が絶対的美の象徴であり、あらゆる感覚の根源と信じた彼は、金閣寺の消失による世界の変貌を信じるわけだ。そこには理論も客観性もなにもない。もちろんそれで世界が彼の望んだように変貌したわけでもない。

 結局彼は自分にとって巨大な存在であり続けた金閣寺消失による“自分”の再生を願ったのではないだろうか。それならば行為ではなく認識で変えられたはずではないかと我々は思う。しかし彼は信じて行為した。鬱屈とした精神の孕む狂気が、行為となった瞬間、それは大きな力となる。

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by shikisima594 | 2007-01-18 21:15 | 読書録
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