『花ざかりの森・憂国』
f0018981_2245951.jpg 三島由紀夫とは、同時代で見ていた人と、後世でしか知らない人とでは相当に印象が異なるのではないかと思う。自分たちの世代からすれば、「むかし、自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニーから軍服着て演説して切腹した人」という認識が支配的である。

 たしかに、あの瞬間においてこそ、行動者三島由紀夫の本質はまざまざと表現されているのであるが、同時代で三島由紀夫を知る人達はそれにとどまらない、多彩な三島由紀夫の肖像を見ていたはずだ。

 まず、第一に三島由紀夫は作家であった。それも評論や報道を生業とする作家ではなく、文学者といった方が適しているかもしれない。脚本も書き、内外の雑誌や新聞から取材され、映画に自ら出演し、東大で全共闘と討論し、楯の会をつくり…

 そのあとは皆の知る所であるが、そのような多彩な顔を持った稀代の表現者であり行動者であった三島由紀夫の実像の一端が垣間みられるのが本書『花ざかりの森・憂国』(新潮社文庫)である。これは三島由紀夫に因る自選短編集であり、よく一人の作家が、これほどまでに多岐に渡る題材で筆を走らせたものだと驚いてしまった。

 しかも、表題になっている「花ざかりの森」は、三島由紀夫十六歳の時の処女作であり、若くして恐るべき才能に満ちていたのだと実感する。到底、いまの十六歳に描ける文章ではない。自分は同じく表題になっている「憂国」が目当てで買ったのだ。

 これは同名の映画(写真、本書の扉より)にもなったもので、三島由紀夫が自ら演じる軍人が切腹して果てる場面は大きな話題を呼んだ。三島由紀夫、市ヶ谷での自決に先立つ事十年前の作品である。

 ここにおいて、十年後の壮絶な最期の壮大な伏線をひいていたのではないかと勘ぐってしまうが、三島由紀夫がこの時すでに武士的日本人の生き様の最期を切腹にみいだしていたと考えるのは早計ではなかろう。

 この映画は後に三島由紀夫夫人が、その内容から、回収して焼却処分にしてしまい、幻の映画になってしまったとされる。それはさておき、この「憂国」は先に紹介した二・二六事件を基にしているのである。

 二・二六事件勃発により、それまで親友であった将校達が反乱軍として蹶起し、主人公の中尉はこれを討たねばならなくなる。しかし、それはできない。さりとて、彼らと共に起ち、陛下の勅命に抗する事も出来ない。

 そこで彼は逡巡の果てに、友への信義も、陛下への忠義も、いずれかを取る事は出来ず、自決を決意し、切腹し、彼の妻も粛々とそれに続く様を描いた小説である。短いながらも三島由紀夫らしさが凝縮された小説であり、人間の誠のあり方に対する三島由紀夫の一つの見解とも読める。

 また、この『花ざかりの森・憂国』には「卵」という短編ギャグ小説も収録されている。多分、三島由紀夫を既存のイメージでしか認識していない人は、「あの三島由紀夫がこんなのを書いていたのか!」と思うぐらいの構成になっている。

 毎日、卵ばかりを食べている学生たちが、擬人化した卵に取っ捕まって、卵たちから東京裁判のような裁判にかけられる話なのだが、三島由紀夫の耽美で繊細な文学の印象とは大きく懸け離れた作品だけにおもしろい。

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by shikisima594 | 2007-02-28 22:43 | 読書録
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