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硫黄島遺骨収集記 第二回
前回からのつづき。

 来島二日目、いよいよ私にとっては作業初日がきた。島の北東の漂流木海岸という場所付近での作業である。宿舎から車に揺られて十数分ほどで壕へと到着、昨日島内を回ったときに見た壕のどれよりも巨大であった。此の巨大の壕は米軍によって大量の土砂をかぶせられて隠されていたため、六十二年間見つからなかったのだという。

 米兵の中には壕の入り口に水や食料を供えて下さる方もいたらしいが、夜中に壕の中に入ってキャンプをする者、髑髏を持ち帰る者、金歯を抜いてゆく者、壕内を探検しようと立ち入って帰ってこなくなる者などという人道にもとる不届き者も多かったという。こうしたことを防ぐ為に、壕は米軍によって隠された。これは、今もなお数多の御遺骨が発見されないままになっている理由の一つである。

 作業初日はザルリレーにて土砂を運び出すなどの単純作業を行って終わりだったが、私自身知識にも経験にも大いに不足があるのは分かっているから、それで十分だった。此の日の午後の作業はスコールの影響で中止となってしまった。

 真剣に声を掛け合って最前線にて御遺骨の収集にあたっている年配の方々を見ていると、英霊たちは例え何年かかっても彼等を忘れない人たちがいる限り故郷へと帰れるのだと思い純粋に感動したが、反面で「あれはただの骨だ、昔は人だったが、今は物と変わらないんだ。」といわれてしまえば、それで終わってしまう。そう考えると、とても複雑な心境になった。


作業二日目、地面からこの手で御遺骨を収集する作業を一部手伝わせてい頂いた。  御遺骨は損傷が少なく、欠損した部分もほとんど見られない。完全遺骨といわれ、こういった状態で発見されることは近年珍しいという。壕の中からはもちろん遺品も多く発見される。鉄兜や銃弾以外に、この日は水晶製の見るからに高級そうな印鑑が出土した。戦時下の状況を考えると、恐らくはこの壕に居られた将校階級の英霊のものだろう。

 作業が終わり、日が暮れた後に、自衛隊の方々の話を聞く機会があった。その中で自衛隊の方の一人がこんなことを言っていた。「この島には昔、水も物も人も足りなかった。だからどれも大切にしなければならなかったが、やはり一番大切にしなければならなかったのは、人だろう?」と。私はこの言葉に感銘を受けた。

 実際に硫黄島では、その島にいる全ての人がまるで家族の様に声を掛け合って生活しているように見えた。何も用が無くても、すれ違い様に人々は挨拶を交し合う。この文章は内地に戻って帰ってから打ち込んでいるが、帰り際に渋谷の雑踏に立ったときの人々の愛想の無さに対する不快感といったらこの上なかったことを忘れられないだろう。

 作業三日目、ずっと作業を続けていた大型壕の中から七柱を収集し、この壕での全作業を完了した。その際にその壕から今までに出土した身元が分からない遺品は、全て壕の中へと戻す。持ち帰ることが不敬だからか?英霊の御霊が壕の中に残ると思ってか?等と色々と考えたが、これがどういった配慮からかは私には分からなかった。同時に、新たに発見された壕での収集作業に取り掛かった。先述したが、壕の多くは米軍によって隠されている。そうした壕を熟練の方は、熟練の勘と、現地、現物、証言の三位一体の情報を元に探し当てるのだという。

 作業最終日、作業中に自衛官のお偉いさん方が視察に来た。彼等は作業の様子や、出土した御遺骨を一通り見てからお帰りになったのだが、私と同じ班の仲間があることに気づき、腹を立てていた。曰く、「彼等は御遺骨に対し礼をすることが無ければ、労いや感謝の言葉もかけずに帰ったのだ。」という。

 彼以外にも、古くから遺骨収集に携わる多くの人がそのことに対して落胆や怒りをあらわにしていた。 米国に作られた軍隊といえども、同じ日の丸を、そして同じ故郷を、民族を守るという視点から見れば皇軍の兵は彼等の先輩とも師とも言えるはずである。その御遺骨を前にして敬意を表さない自衛官はけしからん。そのことに最後まで自分で気づけなかった私はもっとけしからん奴だと思った。
 
 作業最終日から帰還の日までに、一日休日があった。休日中は摺鉢山頂上から日の出を見たり、ジャングル内を歩いて探索したりと、硫黄島の自然を堪能した。英霊の方々の当時には当てはまらないかもしれないが、あの島の風土は故郷として懐かしむに十分過ぎるだけの美しさがあった。戦前には千人以上の島民が暮らしており、旧島民の会という団体の方々が今もこの島に時折来るのが何よりもその証拠だろう。(つづく)

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by shikisima594 | 2007-03-12 20:11 | 活動報告
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