赤尾敏先生の生き様
f0018981_23205396.jpg 先日、銀座の数寄屋橋に足を運んだ。大勢の人々が行き交う数寄屋橋交番前は、かの大日本愛国党の赤尾敏先生が、平成二年まで連日朝から夕方まで延々と演説を続けられた場所だ。

 赤尾先生について簡単に述べると、戦前に社会主義から転向して愛国運動に挺身し、国会議員にもなったが、大政翼賛会の中で対米開戦をめぐり東条内閣を真っ向きって批判し、戦後も大日本愛国党を率い、一貫して親米反共愛国の運動を貫かれた方だ。

 そういうと、「恐い、右翼だ…」と思われるかもしれないが、赤尾先生ほど広く国民から親しまれて、ある種の尊敬を受けていた人も珍しいのではないだろうか。一般人がいだく恐くて不気味な右翼像とは異なり、純粋な信念を体現した人で、その姿勢は取り締まる側の警察からも、外国人にも、思想を異にする左翼陣営にも、赤尾先生のファンがいたという。

 また、「不肖・宮嶋」で知られる、著名なカメラマン宮嶋茂樹氏の処女作は赤尾先生の写真集であるし、宮嶋氏の他の著作などを読んでみても、赤尾先生がいかに純粋な信念と素朴な人柄で、この国を憂いていたかがよく分かる。

 雨の日も、風の日も、雪が降ろうが、太陽が照りつけようが、数寄屋橋での街頭演説は連日にわたって続けられた。選挙がはじまれば候補者以外の街宣はできなくなるものだから、自ら立候補してでも毎日マイクを握り続けられた。

 齢八十を過ぎ、九十歳を目前にして立っていられなくなると、街宣車の上に椅子を置き、そこに腰をかけて演説を続けられた。その姿は多くの日本人に知られ、来日した外国人たちに驚きを与えた。 そこには一種の神秘的な威容があったと当時を知る人から聞いた。

 人は赤尾先生の事を「昭和のドンキホーテ」とも「数寄屋橋の反共将軍」とも評した。ずっと数寄屋橋交番前でマイクを握りつづけられたものだから、とある雑誌が「東京の待ち合わせスポット」という特集を組んだ時、「渋谷駅ハチ公前」と並んで、なんと「数寄屋橋の赤尾敏前」として掲載されたという伝説がある。

 人間が待ち合わせの目印になったのは、後にも先にも赤尾先生だけではないだろうか。それぐらい有名だった。僕は田舎の出身だが周囲の大人達はなぜか赤尾先生を知っていた。学校の先生も知っていた。 「総理大臣は知らなくても、赤尾敏なら知っている」という出所不明の諺もあるというぐらいだ。

 そして今、赤尾先生がかつて演説をされていた場所である数寄屋橋交番前のガードレールには写真の顕彰プレートが取り付けられている。公の設備にである。そしてそこには赤尾先生の没後17年たった今日でもご覧の通り、花が供えられている。それぐらいの影響力を与えたのは、やはり赤尾先生の信念と至誠のなせる業だろう。

 なんでも数寄屋橋での赤尾先生の街頭演説は二万回を超えたというのだ。これは単純に計算して、年末年始も一切休むことなく毎日街頭演説をやりつづけたとしても、五十五年近くかかる計算であるが、実際にそれだけの時間ずっとやり続けられたという。これはギネスブックものだ。 「赤尾先生に『バカ野郎』と言われなかった総理大臣はいない」という逸話もあるほどだ。

 したたり落ちる一滴の水が、途方もない年月をかけて巨大な岩盤に一筋の穴をあける現象がある。鍾乳洞で鍾乳石が形づくられ、そよと吹く風が莫大な年月をかけて広野の岩石に自らの姿を刻んで行く。

 そうした大自然の途方もない年月と人智を超越した力の為す現象に、我々凡人は畏怖と感動を抱く。僕はその思いを、数寄屋橋で終生マイクを握り、この国の先行きを憂いて叫び続けられた赤尾先生に見い出す。

赤尾先生の言葉に次のようなものがある。

「愛国運動に挺身するためには、ちょっとした気紛れだけでは到底やりつづけられない。広い知識と修養が必要だ。例えば、いくら哀れに思う気持ちがあったって、知識がなければ医者は患者を助けることはでないだろう。医学を究めて初めて医者として患者を助けることができるのだ。国を助けるのも同じ事だ…」

 自分も全く足らず及ばずながら、国を憂い、愛国運動に身を投ずる思いは持っている。がしかし、半世紀以上に渡って終生、運動に身をおいて、絶やす事無く、憂国の叫びを続けられた赤尾先生だからこそ、この言葉は例えようもなく重い。

 その重みを、数寄屋橋の一角に掲げられたプレートを拝しながら噛み締めた次第である。

タカユキ

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by shikisima594 | 2007-03-18 23:41 | 随想・雑記
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