三島由紀夫『行動学入門』
f0018981_2012483.jpg 先日の卒業式をもって長い間お世話になっていた先輩方が卒業していかれた。自分が大学入学と同時に、皇国史観研究会の門を叩いてより三年間にわたりご指導とご鞭撻を仰いできた先輩達である。一時代が終わったといえば大袈裟に聞こえるかもしれないが、何かが終わったとの実感が自分の内にある。

 そして早いもので、いよいよ自分が四年生となる番が来たのだと思うと、感慨深いものがある。卒業式は、ひとつの区切りであり、いうなれば「おわり」である。一個の「おわり」の訪れが、次代の訪れと新生をもたらす。それはさながら、舞い落ちた木の葉の下から新しい芽吹きがでているかのようでもある。

 すべからく物事には「おわり」がある。そして、それぞれの「おわり」には筆舌に尽し難い美と感動が包含されているのは誰しも漠然と思っているところだろうが、その「おわり」に込められた意義を追及したのが、この三島由紀夫氏『行動学入門』である。

 行動はすべてはじまりと終わりを伴う。昭和を代表する行動的文筆家だった三島氏は、その行動を探求することは、同時に「おわり」を究めることでもあった。といっても、本書の主題ともなっている『おわりの美学』は硬く難解な文章ではなく、週刊誌『女性自身』に連載されたものであり、平易で読み易く、三島氏独特の皮肉の効いた面白い文章になっている。

 例えば、先に挙げた卒業ということだが、三島氏は「学校のおわり」について次のように書いている。

「さて、問題は、この『学校のおわり』です。学校のおわりは卒業式ということになっている。しかし、それで本当に卒業した人が何人いるでしょうか?
 本当の卒業とは、
『学校時代の私は頭がヘンだったんだ』
 と気がつくことです。学校をでて十年たって、その間、テレビと週刊誌した見たことがないのに、
『大学をでたから私はインテリだ』
 と、いまだに思っている人は、いまだに頭がヘンなのであり、したがって彼または彼女にとって学校は一向に終っていないのだ、というほかありません。」(107頁)

 毒舌ながらも鋭い指摘だと思う。この意味からして、本当に学校を卒業する人間がいまやどれほどいるのだろうか。かくいう自分だって卒業できるか分かったものではない。また、最終章は『革命哲学としての陽明学』となっている。

 陽明学とは支那の王陽明が唱えた朱子学の一派であるが、行動に重きをおき、過去において多くの維新・革命に影響を及ぼした思想である。『行動学』と称する以上、三島氏が陽明学に言及していたのは流石と思ったが、その内容も短いながらも濃い。

 江戸時代、民衆のために蜂起した大塩平八郎と陽明学との関係性、また大塩平八郎の思想が後世にどのような影響を及ぼしたかを、西郷隆盛、吉田松陰を挙げて論及しているのであるが、その中で、三島氏が革命原理としての陽明学を「能動的ニヒリズム」と指摘しているのは、興味深くもあった。

 三島氏の市ヶ谷での最期の瞬間。氏を突き動かし、氏の胸に去来していたのは、ニヒリズムであったのか。その答えは分からないが、氏の革命と行動に対する思想の片鱗が垣間みられるのが、本書でもある。

タカユキ

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by shikisima594 | 2007-03-22 20:31 | 読書録
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