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誰が為に長崎市長
 四月十七日、長崎市長選挙に立候補していた現職の伊藤一長氏が射殺されるという、実に痛ましい事件があった。投票日まで五日をきった中での出来事であり、大きな波紋を呼んだ。この伊藤氏なきあとに、補充立候補として娘婿の横尾誠氏と市役所職員の田上富久氏が立候補した。

 結果は田上氏が953票の僅差で当選を果たした。しかし、投開票日の翌日から長崎市役所には「選挙は無効だ」、「市長は辞職しろ」という内容の電話がひっきりなしに掛かって来ているという。それもそのはずで、無効票が一万票もあるのだから、無理からぬ話だ。

 まさか候補者が投票日の直前に突然殺されてしまうなど、誰も夢にすら思わなかった事だ。僅差の結果であったし、なんとかもう一度、市民の合意を再確認する手段を講じる事が出来ないものかと考えてしまう。

 しかし、今回この選挙の顛末をながめていると、長崎市民ではないが、なんともやりきれない物を感じてしまう。田上氏は市役所職員であり、横尾氏は世襲である。いずれも政治家や首長になる際に批判が根強い立場である。そうした立場の人しか立てられなかったのかと疑問を感じざるを得ない。

 なくなられた伊藤一長市長にはすまない思いがするが、遺族の方々の言動と立ち居振る舞いには強い疑問を感じたのは自分だけだろうか。横尾氏の出馬の動機だが、伊藤氏の臨終に立ち会い、「自分が出るしかない」と思ったという。

 ところが横尾氏は長崎に住んでいた訳でもなければ、前職は新聞記者であり、行政手腕があるとは到底思えない。では、なぜ横尾氏がそのように思ったのか。理由は一つしかない、自分が亡き伊藤前市長の娘婿だからである。

 個人商店ならば、その動機で十分だろうが、長崎市長の座は一地方自治体の首長である。そのような動機でなるには分不相応ではないか。そもそも我が国のマスコミは総じて政治家の世襲に厳しく批判的であるにも関わらず、いざという時はそうした姿勢もかなぐり捨てて世襲への批判をしないマスコミの無節操ぶりは笑うべき物である。

 そして何よりも、日頃マスコミ、特に新聞社に身を置いていた横尾氏が、義父の死に直面し、「自分が出るしかない」と思ったのは、思い違いも甚だしいのではないか。そして、二十二日の投開票の結果、落選が決まると、伊藤氏の娘で横尾氏の妻が、茫然自失となって「長崎にとって、父はこの程度の存在ですか!?父の愛する長崎でこんな仕打ちを受けるとは!?」と泣き叫んでいた。

 短い間に父を殺され、夫が落選するという、一般人には経験し難い不幸に直面し、その無念は同情するが、公衆の面前で市民を罵倒し、私情をぶちまける事は褒められたものではあるまい。しかし、親が子を殺し、子が親を殺す修羅の昨今において、これほどまでに父や夫の事を想う姿は美しくもある。

 それでも、「父はこの程度の存在ですか!?」と絶叫する姿を見て、多くの国民は何を思っただろうか。こういう時に公私混同の挙句に私情を吐露するような娘を育てた伊藤市長は、まさにその程度の存在だったと思うのではないか。伊藤一長氏の遺徳を汚したのは長崎市民ではない。公私の分別を誤った遺族の方達ではないか。

 まだまだ政治の世界には世襲の弊が根強い。自分の子を跡継ぎにする者、自民党にはウジャウジャいるし、民主党にも少なからずいる。むろん、その子が才覚と志、見識を兼ね備えた人ならば問題なかろうが、そうではなく、何の経験もなく、個人商店の跡取りをする程度の感覚で後を継ぐ者が少なくない。

 そして、それを当選させる有権者も有権者だ。政治意識が封建制の頃の領民と大差ない。悪しき伝統である。不動産、宝石、有価証券といった財産には相続税をかける事が出来るが、政治家の“票田”だけは相続税をかける事が出来ない。

 その結果として、市民を省みない不毛な弔い合戦の私闘が繰り広げられるのである。これが市民の望む政治であるのか。今一度、よく考えてみる必要があるのではないだろうか。

タカユキ

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by shikisima594 | 2007-05-01 21:47 | 随想・雑記
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