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思想と親
 創価学会がウェブ上で「うちの兄貴は学会員」という漫画を連載している。これがネット上でかなりの噂になっていて、僕も知人から噂を聞いて読んでみた。正直、他の新興宗教や既成宗教のプロパガンダ漫画よりも出来はいい。

 その内容は読んで頂ければ分かるけど、上京した主人公の女の子が、兄と同居する事になるところから物語がはじまる。地元にいた時は情けなかった兄の雰囲気が変わっている。人間的に成長したと思っていると、実は兄は創価学会に入信していて…という“お約束”な話なのだ。

 現在までの主題となっているのは、この「兄貴」が、自らが創価学会に入信したことを親に打ち明けるべきか否かを葛藤をするところに、信心の道を求める姿勢を描き出すことである。昭和40年代ならいざ知らず、いまや思想や信仰は持っているだけで、「危ない」「恐い」「やばい」と思われ、人からヒカれるものである。

 皇国史観研究会の後輩たちをみても、何人かはやはり、この創価学会の「兄貴」と同様な葛藤を辿って来た。ある者は、正座して、親に僕の名刺を見せて、「この道に、一生懸命、精進したく存じます」と決意を表明し、許されたとのことであった。

 しかし、そうではない例としては、親が極左で、皇国史観研究会の印刷物を見つけられただけで、家に“軟禁”されて、“自己批判”と“転向”を強要された者もいる。戦前の特高警察ではあるまいし、なんで極左の親がそんな事をするのかと少し驚いてしまった。

 他にも、活動から手を引く事のみならず、思想を捨てる事を強要された人は多数いる。それは親が極左であるとか、創価学会であるとか関係なくである。これは、我々のような思想に限らず、いわゆる左翼思想にしても、宗教にしても然りである。

 日本は憲法において思想・信条・良心の自由が保証されているのに対して、なぜこのような事が堂々とまかり通ってしまうのだろうか。何も憲法に根拠を求めるのみではない。世間では個人主義や個性の尊重が声高に叫ばれながらも、そうした信念や信仰を持つ人を避けようとする風潮が確かに存在している。

 避けようとする人の気持ちも分かる。そうした思想を持つ人が、自らの思想や信仰を強要するのは気持ちのよいものではないから、避けようとするのは至極理にかなうところではあるけれども、そうでもない人に対してすら同様であるのは、どうした事か。

 特に親にいたっては我が子から、そうした思想や信仰を捨てさせようと躍起になる人が多い。だから、親に自らの思想や信仰を打ち明けず、人知れず葛藤する人は多いと言う。先日、ナショナリズムを研究する方から、学術的調査を受けたが、そこにも「親が自分の思想を知っているか」という項目があった。

 これは近現代社会で伝統や習慣の断絶が生じる上で、家族関係の希薄化が進む中で発生した現象であると思うけれども、僕の両親の場合は、僕の思想も活動も全て知った上で、「元気にやりなさい」と言ってくれるから、とてもありがたいが、そうでもない親も多い。

 だけれども、いや、だからこそ親にドンドン親に打ち明けてほしいと思う。理解が得られるに越した事はないけれども、拒絶された場合は親の壁にブチ当たって行ってほしいと思う。ライブドア元社長の堀江貴文が興味深い事を言っていた。会社を起して商品をつくったら、まずはそれを親に売れというのである。

 というのも、親こそが自分を最も信頼し、理解してくれる存在であり、その親すらも認めてくれない商品が世間に受け入れてもらえるはずがないというのである。あれほどまでに親不孝な事をやらかし続けたホリエモンにしては意外だけれども、その通りだと思った。

 これと同じように、この世で最も、無条件で自分を愛して理解してくれるのは親を置いて他にない。その親の理解が得られない思想や信仰で世を変える事はできないし、親に迷惑や不孝をして何の理想だというのか。親すらも納得させられない思想であるならば、それは自らのうちに実践が伴っていないことではないか。

 僕らのような思想に限らず、あらゆる信念や信仰を持った人には是非とも、親と向き合うことによってこそ、自らの思想と信念の深みと実践に磨きをかけていただきたいし、僕自身もそうありたいと思う。

タカユキ

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by shikisima594 | 2007-05-13 23:25 | 随想・雑記
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