夢と魅惑の全体主義   井上章一
f0018981_0171264.jpg この本では、イタリアのファシズム、ドイツのナチズム、そして日本の戦時体制を比較しながら全体主義を考察していく。第二次世界大戦下の日本を同時期のファシズム国家と比較した議論は数多く行われてきたが、都市と建築に着目した比較というのは珍しい。

 かつて、ヒトラーはベルリンをナチスドイツの首都にふさわしい姿へ造り変えようと
していた。スターリンも建築には熱心で、スターリン・デコとよばれる様式まで生みだすに至っ
ている。ムソリーニ、ヒトラー、スターリンは壮麗な巨大建築と都市改造計画により、自らの
体制の力を誇示していた。

 しかし、彼ら独裁者はともに権力の簒奪者であり、統治者の正当性にはどうしても欠けるところがあった。その弱点を克服するために、独裁者は国民を扇動し、彼らの支持をとりつける必要があった。ファシズム国家における都市改造計画は、民衆の支持を得るための重要な装置でもあった。

 しかし、同時期の日本の都市建築には、そのような形跡はない。むしろ、意匠を凝らした建築は贅沢品として敵視され、鹿鳴館などの明治期の名建築も取り壊されてしまった。

 その代りに、東京の官庁街には、鉄鋼の節約のため木製の安っぽいバラックの庁舎が次々と建てられた。外見が安っぽいだけではない。火災にも弱く、一度の落雷で九棟の庁舎が全焼したことさえあった。

また、物資の節約のため、建設途中のまま六階建てのうち三階以上が鉄骨しかない状態で竣工した駅舎まであった。ヨーロッパの独裁者たちは、壮大な建築により自らの正当性を示し続けなければならなかった。

 一方、日本においては、そのような大がかりな建築は必要ではなかった。その理由は、日本では統治者としての天皇の正当性は、建築に訴えずとも揺らぐことがなかったからである。



 だが著者は、そのような見てくれを否定し禁欲精神の貫徹する社会も、ドイツやソ連とは目指す方向が異なるものの似たようなユートピア色があると主張し、それを「日本ファシズ
ム」と表現する。

 私は「見てくれを否定し禁欲精神の貫徹する社会」というのは、つまり、当時の日本の国力の限界を示しているのであって、戦前・戦中の日本に存在した「日本ファシズム」とは「戦時体制」以上のものではないと考える。

 確かに、戦時体制の日本は全体主義国家であっただろう。
だが、それは戦時下においては仕方のないことであって、日本をファシズムという枠組みでひとくくりにすることはできないはずである。

私は建築には全くの素人だが、このような視点から歴史を見ることも興味深い。

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by shikisima594 | 2007-05-22 23:12 | 読書録
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