葦津珍彦「一、国民統合の象徴」を読む
 いつであったか、大学の友人から「葦津珍彦って誰?」と問われて少し驚いた事があった。よく分からないが授業で出てきたらしい。特に政治や思想を話題にしない友人であったからやや説明に困り「全国の神社を纏める神社本庁という組織を作った神道家であり思想家だよ」と答えておいた。
 思い返してみれば私も葦津先生ご自身の事はあまりよく知らない。私が知るのは殆どこの葦津珍彦『日本の君主制─天皇制の研究』葦津事務所 平成十七年からである。今回はこの中から「一、国民統合の象徴」(六項)を取り上げる。

 本論文は昭和三十六年に左翼雑誌『思想の科学』三十七年新年号に掲載されるはずであったが中央公論によって自主規制され、結局四月号に掲載されることになったものである。今ひとつ事件の経緯や背景がはっきりと分からなかったのでこの事は割愛させて頂く。


 まず「戦争と敗戦とを通じて、日本の天皇制は、その根づよい力を立証した。」(六項)と始まり、占領下圧倒的な軍事力・統制力を発揮したGHQですら破壊できなかった「天皇制」(天皇制という言葉は日共が天皇と国民の関係を、いくらでも変えられるひとつの対立的政治制度として捉える為に創造した悪意ある単語として理解しているが、ここでは引用上著者に合わせる事をお断りする)の確認をして、「次次に亡び去った君主国と日本国とでは、大きな事情の差があったにちがいない。」(七項)と推定する。

 大戦後国民投票で君主制から共和制に移行したイタリアと日本を比較し、君主国の中にも様々な具体的事情が存在する事、また、一方に「君主制から共和制に移行するのは世界的事象」と考える潮流がある事を挙げ、「日本とか英国の具体的事実を無視して、日本、英国などの具体的な国の運命を、抽象理論で予見しようとする浅はかさ」(十項)を戒めた。

 次にアメリカ・フランスの政治事情を歴史的に詳しく考察してその共和制の中に、常に選挙を勝ち抜いた戦闘的で野心的な強力なリーダーの出現の可能性、下手をすると君主制的な状態になる事を証明した。これを踏まえイギリスとアメリカ・フランスの政治事情を比較する。イギリス国王は政治的責任を負う必要が無いので「政敵のない英国王が、米国型の大統領制よりも、はるかに“国民統合”の役割を演ずるのに適していることは、いうまでもあるまい。」(十八項)と考えた。

 では日本の場合はどうであろうか。日本の天皇は英国に比べて遥かに非政治的で非権力的である、しかし「列国の君主の中でも、もっとも強力な社会的影響力をもっており、もっとも根強い国民意識に支えられている。」(二二項)とする。
 そして「問題を端的に具体的に考え」(同)る為日本が共和制になった場合を考える。葦津先生は日本に大統領が立つとしたら「おそらく岸信介か池田隼人であろう。」(同)と想定。思わず時代を感じてしまった。「これらの人物に対して、多数の国民が国の代表または象徴としての敬意を感じるだろうか。」と権威の天皇と選挙によって立てられた時の権力者との決定的な差を明らかにする。安倍首相のせいで死ぬものはあっても安倍首相の為に殉死するものは無い事は明白である。

「国民投票過半数の数千万の票を集め得たとすれば、岸でも池田でも天皇以上に尊敬したらいいではないか、それが進歩した共和的市民の心理である、といってみても国民の実感が承知しない。なぜだろうか。国民の間に、動かしがたい国体意識あるからである。」(二三項)

 葦津先生の言う国体意識とは何か。それは美濃部達吉博士が説くところの倫理主義的なものではなく、千差万別の国民が皇室に引き寄せられる複雑な「心理的な力」(二五項)にあるという。国体に関しては昔からその解明が試みられてきた。葦津先生はその中で国体の一面的・表面的(倫理主義・道徳主義からの説明)な解釈を否定し、国体の多層的な面(文化芸術を含めた皇室と国民の複雑な結び付き)を認めたのである。この様な考え方から「君主制から共和制へ」という時流がたとえ存在していたとしても葦津先生はいや日本の場合はそうはならないよと明快に否定出来るのである。
そして本論の最後にある「この地上から、トランプの四つの王が消え失せるとも、日本の天皇制は繁栄し続けるであろう。(二五項)」という葦津氏の確信が大変印象的である。

 「道徳的とか宗教的とか政治的とかいって割りきれるものではない(二五項)」この皇室への国民の意識が、現在まで国体を形成する有力な力となってきたと考えるのには賛成である。皇室と国民との関係を政治・経済・宗教の枠組みのみで捉えては国体の持つ柔軟性というものが見えてこない。政治や経済が変われば皇室と国民との関係も変わるとすぐ考えるのは誤りである。資本主義が天皇制の本質と思い込み、本来なら無用な蜂起と弾圧を繰り返した悲劇を我々は知っているではないか。里見岸雄先生が叫ぶが如く、「社会主義を克服せずして何の金甌無欠の国体か、いわく、社会主義を国体化せよ!」の柔軟で積極的な国体の解明が求められているのである。

 本論文には葦津先生の“国民の自然的な皇室敬慕の念への信頼と確信”が読み取れる。私もそれを信じたいが不安を感じずにはいられない。「天皇制?無くてもいいけどあっても良いや」という戦後から続いたサイレントマジョリティに似たこの空気はいつ崩れるやも知れない。現代の最前線を生きる我々はいたずらに“かつての志士達の無限の殉国の末に構築されてきた国体”に安易にもたれ掛かるのではなく、自覚を持って常に国体をつくりかためなさなくてはならない。

追記:今回は駆け足の様な粗野な作りになってしまった。次回からはより踏み込んだ内容にしたいと思う。

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by shikisima594 | 2007-05-26 23:45 | 読書録
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