六月十五日定例部会
 本日国士舘大学世田谷校舎にて敷島倶楽部定例部会が開かれました。
今回は前回の「八紘為宇」の復習と、「天壌無窮の神勅」について議論が行われました。


 『日本書紀』巻第三 神武天皇の条 三月辛酉朔丁卯 「皇都経営之詔」

「夫れ大人(ひじり)の制(のり)を立つる、義(ことはり)必ず時に隨ふ。苟(いやしく)も民に利(くぼさ)あらば、何ぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ。且(また)當に山林(やま)を披拂(ひらきはら)ひ、宮室(おほみや)を經營(をさめつく)りて、恭(つゝし)みて寶位(たかみくらゐ)に臨み、以て元元(おほみたから)を鎭(しづ)むべし。上は則ち乾靈(あまつかみ)の國を授けたまふ德(うつくしび)に答へ、下は則ち皇孫(すめみま)の正(たゞしき)を養ひたまひし心(みこゝろ)を弘めむ。然して後に六合(くにのうち)を兼ねて以て都を開き、八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)と爲(せ)むこと、亦可(よ)からずや。」


 この詔にある八紘(あめのした)・宇(いへ)と爲(せ)む、を如何に解釈すべきか。恐らくこの詔が渙発せられた時には大八洲、即ち日本国内を民族的に、血統的に統一する事を願われたのであろう。

 この詔の正当なる発展が、「民族解放」あるいは「共存共栄」である。
何故ならこの詔には大八洲という地域の限定がなされていない。いへとせむのは日本に限定されないのである。そして神武天皇が御健在ならばこの精神は当時よりも広い意味での「世界」にあまねく事を望まれたであろう。この精神は大東亜戦争において「東亜解放」「大東亜共栄圏建設」となって再び顕現されたのであった。

 八紘一宇は国体護持の精神と共に日本で最も重要な精神として伝えられるべきである。天壌無窮の神勅は日本国の形の原理を表現し、八紘一宇は日本国の使命の原理である。



 次に天壌無窮の神勅である。

葦原千五百秋之瑞穂国是吾子孫可王之地也。宜爾皇孫就而治焉。行矣。宝祚之隆当与天壌無窮者矣。『第一巻上 日本書紀 前編』

 天壌無窮の神勅は『日本書紀』第九段第一の「一書に曰く」で見える。『古事記』には『日本書紀』ままの文句は見ることは出来ないがやはり天照大神の詔として同じ様な文句を読み取ることが出来る。この「一書に曰く」を含め神勅の表現の仕方は多岐に渡るが、何れもその表すところの精神は共通しているのである。

 神話にはその民族の価値観が反映されている。その神話が今日に至るまで伝えられてきた事にまず注目する。この有史以来、大和民族が「不必要!」と考えればこの神勅など破棄する機会などいくらでもあったはずである。朝廷の権勢が衰えた時代ならば時の権力者に都合の良い全く新しい”神勅の創造”も可能であったはずである。

 それなのに例え「一書」の中であろうと大和民族はこの神勅を伝えてきた。それはその神勅に絶対の価値を見出してきたからに他ならない。

 大日本帝国憲法「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の根拠は無論この神勅による。また米国製との声も名高き日本国憲法に於いても天皇の条を設けている。GHQをしても残さねばならなかった天皇そして日本国は、現在も正に天壌無窮の神勅の下に形成されていると言えるのではないだろうか。

 しかしながら今日に於いて神勅の”神性”に安易にもたれ掛かる事は厳に慎まねばならない。私達は神勅の”確信”の下に國體護持の理論練成と行動が求められているのである。

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by shikisima594 | 2007-06-16 00:13 | 活動報告
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