私的敷島回想録 6
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 ずいぶん前に卒業された大学の先輩から、「俺たちが居た頃は、大学の周りに4年生ぐらいの先輩や、卒業生の下宿があって、そこを“塾”なんて呼んで、みんなの溜まり場にしてたもんだよ」と聞かされた。

 誰かの下宿に集まって、朝まで酒を飲んで語り明かすのは学生の特権だろう。この先輩などがいらっしゃった当時の国士舘は、サークルごとにそんな「塾」があったそうだ。僕が入学したころは、「塾」と呼ばれるものはなかったが、限りなくそれに近いものは存在していた。

 当時の皇国史観研究会の会長が、大学近くの下宿に一人で住んでいらっしゃったので、よく会員たちが自然とお邪魔していた。そこは「塾」ではなく、家主が戦前の大陸浪人的な気風に傾倒されていた事もあり、「満州」と呼んでいた。

 持ち主不明の物品が散乱し、たまに怪奇現象がおこる部屋で、皇国史観研究会以外にも様々な人間が集まって来て、みんな仲良く鍋をつついて酒を飲む。まさに「王道楽土、五族協和」の満州のようなところであった。朝まで酒を飲んで、真剣な話も、ふざけた話も延々と語り明かした。

 とりあえず、人が集まってする事がなければ、思いつきでいろんな事をやった。突発的に遠出にでかけたり、映画を見たりするのが多かった気がする。映画は『大日本帝国』と『ムルデカ』を一番多く見た。とくに『ムルデカ』はインドネシア国歌を歌えるようになるぐらい見た。

 そんな風に、枠にはまらずに、何でもやって、何でもさせてもらえるのが、僕にとって皇国史観研究会の大きな魅力だった。受動的な人からすれば「何をすればいいのか分からない」「やる事が突発的で行き当りばっかり過ぎる」と批判する人もいるが、主体的な意思があってこそ楽しいのが皇国史観研究会だろう。

 平成17年の夏合宿で関西に行ったが、その時はさして詳細なスケジュールが決められていたわけでもなかった。すると、関西に着いた日のその時間から、甲子園球場で国士舘高校の試合があると知り、すぐに応援に駆けつけた。写真はその時の「皇国史観私設応援団」の写真だ。それぐらいに柔軟さがあった。

 平成16年の冬に、当時まだ一年生の僕などが中心となって壁新聞をはじめた時も、先輩方はとやかく言う事なく、自由にさせてくださった。翌年の夏に壁新聞が潰されてしまった時も、「残念だったが、次を頑張れ」と言ってくれた。

 おかげで平成17年の12月に、このブログが立ち上げられた訳である。たちあげたからには目標をもった。「一年以内に、ブログランキングのトップ10に入り、10万アクセスを超える」というものだった。「無理だ」との声もあったが、僕には出来るとの無根拠な確信があった。

 というのも、僕が一年生だった頃の会長は、何があっても、口癖のように「大丈夫、大丈夫」と言っておられた。僕は何度も「無理だろう」と思ったが、本当に不思議と「大丈夫」だったし、先輩も無事に五体満足で卒業されていかれた。

 この事から、自信をもって取り組めば、だいたいの事は何とかなるような気がしていたし、目標があれば、それに向かって何を成していくべきかが分かるようになってきた。だから、ブログも同様に、目標を達成するためには何をなすべきかを見据えて、それを着々とこなし続けた。

 去年の今ごろは、「富田メモ」報道をやらかした日経を追及していたし、その過程の中で杉田亮毅日経社長と支那の唐家旋国務委員が会談していた事実もつきとめたりした。毎日新聞の在日記者不敬質問の追及もやったし、法政大学の左翼学生弾圧を批判して当の左翼学生から御礼の書き込みを頂戴して驚いたこともあった。

 そんな事を経ながら、なんとか当初の目的であった「一年以内に、ブログランキングのトップ10に入り、10万アクセスを超える」という目標は達成できた。会員全員とても驚いていた。以前にやっていた壁新聞『敷島だより』は週刊で100部で、それを潰されてこのブログを立ち上げるに至ったわけだが、怪我の功名とはまさにこの事である。国士舘の左翼教授の先生、どうもありがとうございました。

 しかし、これでネットの可能性と限界について色々と考えるところもあった。まず、ブログランキングだが、これで順位をあげるには、中国や韓国の批判を書けばあがる事に、なんとも言えない複雑な気持ちであった。確かに中国・朝鮮がケシカランのは当然で、僕らもその思いでやっている。

 だが、ここに我が国の歴史や伝統、皇室の事について書いてもランキングは一向に上がらず、中国・朝鮮を批判したときのみに、ランキングが上がる事に、何とも言えない不安を感じたのである。外国を批判する事で成り立つナショナリズムならば、中国や朝鮮と同様である。

 皇室という万邦無比たる民族の核をいただく日本が、その崇高な御存在を閑却して、外国を罵倒する事のみに血眼になっていたのでは本末転倒であるし、皇国史観研究会の本旨からすれば全く望むものではない。我々が外国を批判するのは、尊皇あっての攘夷であり、攘夷のための攘夷や、自己満足のための攘夷ではない。

 なので、現在では記事ごとにブログランキングへのリンクを貼らなくしている。それはそれでよかったのではないかと思う。ランキングにばかり気をとられて、もっと大切な物を見落としていたような気がするからだ。

 それにしても、ネット言論とは不思議なもので、様々なレッテル貼りもたくさん頂戴して来た。それらを総合すると、僕などは「極左の在日朝鮮人で創価学会信者で統一協会信者で暴力団構成員でヒキコモリのニート」という事になるらしい。なんじゃそりゃ。

 まあそんなネットの負の側面もあったけど、いいところもいっぱいあった。ネットを見て入会希望をちょうだいすることも度々あったし、出版物の注文も多数いただいた。胸迫るような激励の書き込みをいただく度に本当に励まされて来た。これは感謝してもしきれない。

 ネットの可能性は未知だろうし、ネットに限らず、人間は自らの主体的な意思によっていくらでも未知なる可能性を切り開いて行けるのだと感じたのが、皇国史観研究会とネットでの活動だったのではないかと振り返るのである。

 さて、とりとめもなくダラダラと、散文的に書き連ねて来た本連載であるが、これをもって筆を置かせていただきたい。本当はもっと書きたい話や、載っけたい写真がいっぱいあるんだけど、関係者の方々の事情もあるので、これぐらいにしておかねばならない。この連載を読みながら、「あの話はいつ出されるんだろう…」と戦々恐々されていた方々、胸を撫で下ろしていただいて結構ですよ。

 思い返せば四年間の出来事が走馬灯のように駆け巡り、話題と名残は尽きない。長いようであって本当に短かった。後悔もあれば反省もある。しかし、その間に皇国史観研究会から多くの事を学んで、自分自身も大きく変わってきたと、しみじみと実感するのである。

 最後に、皇国史観研究会のますますの発展と、後輩諸兄らの活躍と健闘を心より祈念申し上げて、本連載の締とさせていただきたい。

タカユキ
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by shikisima594 | 2007-08-13 22:56 | 随想・雑記
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