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解放という幻想

 解放という言葉は戦後民主主義というテーゼ上ではさも美しいものだと流布されてきた。だが、実際はどうであったか?解放された経済は単なる拝金主義に陥り、解放された皇室は衆愚の思惑によって左右され、皇室としての輝きをマスデマコギーによって穢されている状況に陥り。解放された家庭は規範を持たない個人主義によって、社会不安の元凶となってしまった。

 他の海外諸国のように目に見える形での搾取を根底としている社会体制上では正しく解放という存在は非常に重き位置にあり、またあったというのは歴史的事実からも言えることである。白人による植民地体制やロシアや支那からみえる、超絶的な中央集権体制上からは一般人を解放することは有意義な価値と意味があった。

 だが、我々が受けてきた解放というものは日本人としての、日本としての長年培われてきた規範というものを崩壊させてしまい。解放を野獣の野放し状態の自然状態と同じことであるととんでもない勘違いをしたところから、この自由というもの、解放というものに対する失敗の元凶があると考える。

 なぜ?このような大失敗をした理由を今、考えられるところから挙げるのあるならば。
 第一に世界史という単位を日本そのものに無理矢理合わせようとした点が挙げられる。それは西洋帰りの学者やそれを美化しようとした学者により、西洋的なもの、世界的なものが普遍的な論理であり。日本もその普遍的論理に当てはめねばならない、という学者そのものの個人的なエゴから来ているのではないかと考える。

 実際、日本が世界史上でてくるのは二点である。日本史でいう、種子島鉄砲伝来が世界史上では「日本発見」であり。もう一点は日露戦争である、日露戦争は有色人種が始めて白人種に対して国際的な戦争で勝ったということである。それ以外のところで日本史を世界史化させる必要は全くないのである。

 第二に自由そのものの実態の無視が挙げられる。自由には同時に規範が付くものである。ホッブズの自然状態は自由ではなく、単なる野放図な世界であり。人類という社会的動物にとって非常に生きることが難しい世界である。規範を作るにはその規範を前提とする絶対者、日本の場合は天皇陛下がそのご存在そのものであり。それを崩壊させることは日本を自然状態化させることであり。日本の社会そのものを崩壊させる行為である。

 もう一つ最後に挙げるなら、消極的自由しか受け入れなかった点にある。積極的自由には諸権利が発生するが、同時に権利履行にはそれなりの規範を用いなければならない。例えば、報道の自由といいながら毎日新聞社佐賀支局のような事件は日本国の新聞社であるという、前提を履行していないことになる。日本国が報道の自由を保障しているのであるなら、日本の規範そのものを潰すような報道は異常なわけだ。

 このような、自由や解放というものを懐疑したほうがよいという論理を説くと「全体主義者」と罵る輩がいる。しかし、そのような短絡的で幼稚な悲鳴はなんの意味がない。むしろ、自由が行き過ぎて今の日本人は拝金全体主義者化しているではないか!規範を放棄したものには日本人としての筋がない、筋がないものは筋がないもの同士で集まる。

 それこそが一番凶悪な全体主義ではないか!

 我々が求めるところは日本人としての筋が入った、日本主義である。日本としての規範を持ち、日本主義が保護している範囲での自由を守る。それ以上の自由は日本国には存在しない。同時に、わが国には解放という妄言は必要ない。解放を叫ぶならそれ相応の国家に行き叫べばいいだろう。



 文責 ○○おじさん


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by shikisima594 | 2006-11-29 01:16 | 随想・雑記
創価学会に対する個人的見解

 最初から私事みたいな話から始まって見ている方々には申し訳ございません。
 自分の住んでいる場所は創価学会の地区会館から徒歩1分もない場所に住んでおりまして、土曜日とかになると創価学会員がまるで角砂糖に集まる蟻のように会館に入っていく光景がよく見れます。

 また、自分の通っていた公立の小学校はその創価学会の地区会館から非常に近い場所に立っていました。当然、クラスメイトにも親とかが創価学会員であるという人が異常に多く、友達の家に遊びに行けば、創価学会の仏壇が置いてあるなんて家が相当あったことを覚えています。

 単にそれだけの話ですめばよかったのですが、小学生の時に友達だった人がどこから自分の電話番号を知ったのかはわからないが、自分に電話してきて今度会おうという話になり、そいつと会って話をしたら創価学会に入信しないかという話だったのです。

 創価学会はすばらしいとか池田先生は立派だとかどうでもいいくだらない話ばかり吹っかけてくるので、つい頭にきて今の創価学会の不当性と正当性を持ちたいのであるならばさっさと大石寺に頭を下げて、日蓮正宗の講に戻るべきではないのか?という論理を出していったら勝手に切れてしまったのです。

 たとえば、池田大作が仏陀の輪生した存在というのであるならばそれは真っ赤なうそである。それは、仏教の論理上では仏陀という存在は六道輪廻から外れた存在であるから。人間界に戻ってくるなんて絶対にありえない。そんな仏教的な常識の論理から外れた事を言う、仏教を基礎にしている宗教団体は偽者以外のなにさまでもないと言ったわけですね。

 それで切れた時の捨て台詞というのが、「お前みたいなやつに池田先生の偉大さなんてわからない」とはいてさっさと帰ってしまったのです。久しぶりに会って、こっちは今まで何があったのかとかよくある回想話がしたかっただけなのに勧誘みたいなことをしてきて、自分に都合が悪くなったら切れて帰ってしまうなんて最低という言葉以外に何が当てはまるのかがわからない。

 人は何かを信じることでしか生きることはできない。ただ、その信じたことがほかの人に迷惑をかけ、気分を悪くさせるものであるなら、それは間違いである。宗教はすべての人のためにあるならば、特定の人間にしか益を与えないという宗教は邪教以外の何様でもない。

 このような不当な宗教団体が存在することは宗教そのものに対しての侮辱であり、宗教そのものの歴史的意義と存在を脅かすものである。日本国は法的にも、社会的にも社会を脅かし、一般人を危険な目に合わせる団体をなぜ放置するのか?国家が本当に社会の安定を望むのであれば、このような危険な集団はさっさと潰すべきだ。


 文責 ○○おじさん

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by shikisima594 | 2006-11-24 04:07 | 随想・雑記
三島由紀夫氏第三十六回追悼会 憂国忌の御案内
 昭和四十五年十一月二十五日、東京市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部にて三島由紀夫・森田必勝両烈士が自決なされました。三島由紀夫烈士の文学と行動は今でも各方面に様々な議論を呼んでいます。

 その様な中、有志達が少しでも三島由紀夫を理解し、これを追悼しようという動きが起こりました。これが今年で三十六回目を迎える「憂国忌」です。皆様も「憂国忌」に御参列頂き、今でも人々の心を揺さぶり続けるこの人物達について共に理解しあえたらと幸いと存じます。

以下に三島由紀夫研究会HPより引用させて頂きます。


三島由紀夫氏第三十六回追悼会 憂国忌
 
  日本を代表する文豪、三島由紀夫氏が憂国の諫死をとげてから早くも三十六年の歳月が流れた。我が国の将来が暗澹たる事態は些かも減じていない。
 三島由紀夫氏の作品と訴えを通して日本の将来を考える機会に。

★ 代表発起人 井尻千男、入江隆則、桶谷秀昭、嘉悦康人、小室直樹、佐伯彰一、篠沢秀夫、竹本忠雄、中村彰彦、細江英公、松本徹、村松英子ほか発起人二百数十名。
★ 日時 平成18年11月25日(土)18時30分(18時開場)
★ 会場 豊島公会堂 池袋東口 JR・ 池袋駅東口より徒歩5分
★ プログラム 村松英子「三島由紀夫”演劇の河、行動の河”――『薔薇と海賊』を軸に」ほか著名人による追悼挨拶など。
参加者には小冊子を差し上げます。
★ 分担金 一般 1000円 学生 500円  


より詳細は三島由紀夫研究会HP・「事務局からのお知らせ」を御参照下さい。


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by shikisima594 | 2006-11-22 12:55 | 告知
同民族性国家であるべき日本
  
 前回、日本は多民族国家ではないと記述した。多民族国家というのは米国のような、悪く言えばごった煮状態の国家であり。よく言えば他者(他民族)というものを拒絶しないという国是を持っている国家である。それはよい点も内在するし、拒絶しないことが悪い影響を与える点も大きく存在することは言うまでもない。
 多民族国家が多民族国家としてとらねばならない前提には何点か挙げるとするならば。

 まず第一にカラード(人種)によっての他者という感覚の放棄が挙げられる。
 世界には白人種、黄色人種、黒人種と大きく分けることができる。人種それぞれ優れた点と劣った点が存在する。優れた点を重視するのか?それとも、劣った点を重視して排斥するのとでは大いなる差があるのは、少しでも歴史を知っているものには当然の認識であると思う。だが、カラードによる他者の感覚の放棄をするためにはだ。劣った、優れたという優生学的な手法を完全に放棄し、ただ交わることだけを拒絶しないという視点を持つことが重要となる。

 第二に他民族間における利害対立を無くすことが挙げられる。
 これはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のような、セルビア人とクロアチア人とボシュニャク人(ムスリム人)が内紛が生じたようにボスニア・ヘルツェゴビナから独立を求める、クロアチア人とムスリム人を武力により押さえ込み。あわよくば、民族浄化という手段を用いて、一方の民族を消してしまおうということも行った。
 
 これは典型的に利害調節ができなかった上で発生したと考えられる。民族間における利害調節による摩擦にする方向を間違えると一方的な武力によるか、政治的な圧力的問題となる。これは非常に高高度な政治的調節能力がないかぎり不可能と断言していいと考える。

 第三に民族的利権の放棄が挙げられる。
 日本という観点から見てくれれば非常に早い話になる。なぜ?在日朝鮮人が異常なまでに篤い社会保証を受け、パチンコによる権益をもっているのか?それは一概に差別されていたからだの、本国から見捨てられてただの非常に幼稚で低レベルな感情論をばら撒いているだけであり。
 
 論理的な回答がまったく存在しなかったのが現在まで続いてしまった。本当に多民族国家を作り上げるのであるならばだ。民族的な大きな利権を無くし、均一化することによってのみ多民族国家を作り上げることができるのである。権益を捨てたくないがゆえに多民族国家論を説くなんて、子供がおもちゃを買ってほしいために暴れているだけに過ぎない話なのだ。

 今、簡単に思いつくだけで三つが挙げられたがもっと細分化していけたならば。後、十項目ぐらいは作ることができるだろうと考える。上記に挙げた前提をこの日本国に適用させるのは不可能であろう、日本人にとって外国人というものは恐怖の対象であり。何をしでかすかまったくわからない存在である、それがゆえに今までの日本人は警戒してきたのである。 

 どんなに世界がグローバルという均一化思想が叫ばれたとしても、そこに国家というものが存在する限り、受け入れられる限度というのがあり。それをすべて受け入れるなんて国家的アイデンティティを無視する行為である。非常に非生産的な行為であると自分は考える。

 ここで自分が挙げたいのは同民族性国家という論理である。アイヌ人や沖縄人は本来は他民族であるが、今の日本人というアイデンティティ上では同民族のような感覚で我々は捉えている。大体のアイヌ人も沖縄人もそんな感覚を感じると自分は思う。

 また、同民族性国家の非常に優れているところは内に非常に安定した社会を作ることができるという点にある。非常に安定した社会は経済力を高めたり、何より人心の社会的不安を軽減することができるという良性がある。それだから、自分はアンチグローバニストでもあり。反国際主義でもある。

 その同民族性国家の非常に優れたところを無視し、無理やりにでもグローバニズムや多民族国家化を進めようとするものたちは日本からさっさと出て行って世界化という空想に浸っていればいいだろう。

 文責 ○○おじさん

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by shikisima594 | 2006-11-19 05:28 | 随想・雑記
多民族国家ではない日本
 日本という国は非常に縦長で南は沖縄から、北は北海道まですべてが日本国の領土である。
南の沖縄は昔は琉球王国であり、北の北海道は昔はアイヌ人の国であった。しかし、彼らの意識の上では日本人であるという価値観で成り立っているのであるならば、彼らは日本人以外の何者でもないだろうと自分は考える。

 言うなれば、アイデンティティの共有が成り立つ人間同士であるならば・・・。他の民族であれども、日本に帰化するなりして法的に日本人という立場を獲得できたのならばその人間は日本人である。そこに~系日本人と付くだけの問題にすぎないのだ。

 ただ、文化レベルで考えれば確かに大和民族とは違う風習や慣習を持っていて、それが彼らの民族的アイデンティティであっても・・・。国家的アイデンティティという単位で考えれば、どんなに民族的アイデンティティを声高く叫んでも、国家的アイデンティティが日本人というものに属しているのであるならばだ。

 国際的な認識上では彼らは「日本人」である。どんなに文化と国家は違うんだと叫んでも全くの無意味であり、現在の体制が日本国というものに組み込まれている以上、無価値な叫びである。

 昔から日本国の一部に入っている民族に対してはこれ以上、問う必要は全くないがここで問題になるのが在日朝鮮人の問題である。彼らは一言で言ってしまえば、「棄民」である。本国からも見捨てられ、日本からも第三民族扱いにされている彼らは日本人でもなく、朝鮮人でもない。
一言で言えば、根無し草である。

 そう考えると非常に日本国は優しい国である。こんな捨てられた連中に社会的保証を与え肥え太らせていること自体が異常であり。世界レベルであるならば、さっさと国外退去か警察力を行使してでも“駆除”を行うのが常識である。

 もっと愉快な理屈を使ってしまうので有れば、彼らは法的には「棄民」扱いされているのであるから、パスポートなどを所持しているわけでもなく、彼らの身元は全く保証されていないのである。ということはどのようなことか?日本国内における警察力による保証や社会保険などによる保証外の存在であるという事になる。本来の法的解釈から言うなればこのような理屈が組み立てられるのである。

 このような矛盾した存在を国が放置し続けていること自体が異常である。国家が政治上で矛盾した行為を行うのは日本国民にとって最大の屈辱であり、国家が国民を侮辱しているのと同然でもある。また、世界レベルで日本国がこのような低レベルな政治しか行えないと言うのは恥じるべき行為でもある。

 利権というものを守るために乞食以下の行為を行う政治家はさっさとこの国から出て行った方が世界のためであると自分は考える。朝鮮民族は朝鮮系日本人として日本国に帰属するのか、それとも祖国に帰国するのかはっきり二つの選択を選ぶべきだ。

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by shikisima594 | 2006-11-17 21:31 | 随想・雑記
結局核弾頭の攻撃は防げるのか?BMD計画
 現在日本は米国のBMD構想(弾道ミサイル防衛構想)に基づいてパトリオットミサイルのPAC-3の戦力化に勤め、イージス艦のためのSM-3スタンダードミサイルを米国と共同開発したが、これらがもつ「抑止力」はどれ程のものなのか?

 発案者である当の米国は、イスラエルと共同開発したアロー2迎撃ミサイルで幾つかの迎撃実験に成功しているが、いつ飛んでくるか分かりにくい状況下での実験はしていない。
SM-3は現在6回ほどの迎撃実験に成功しているが確実な命中精度はまだ怪しい。
レーザー兵器はというと、未だに実験中で、平成22年頃までは目途がつかないそうである。
地上配備型戦術レーザーシステム(THEL)は迎撃実験に成功しており、過去に28発のロケットと5発の砲弾を撃破しているが配備先は在韓米軍とイスラエルで、日本に配備される予定の空中レーザーシステム(ABL)はまだまだ先になりそうだ。

 そもそも「抑止力」とは、敵に攻撃を思い留まらすだけの「攻撃力」を保有する事であり、敵の攻撃を無力化するものではない。
ただ無力化するだけなら、敵は別の手段で攻撃してくるに決まっている。
それをさせないためには、敵勢力を殲滅出来るだけの戦力を持つ必要がある。非核三原則なる拘束力のない言葉に囚われて核武装に踏み切らないでいるのなら、日本は周辺諸国の事を考えると最低でも10億人を殺せるだけの軍隊が必要になる事になり、あまりに非現実的な「軍国主義」にならざるを得ない。

 今こそ、北朝鮮の核武装や、半島並びに中共の傲慢な態度に対して核武装を叫ぼう!


文責:洗國

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by shikisima594 | 2006-11-14 21:37 | 随想・雑記
経団連にもの申す!
経団連の連中というのは、自分達の利益のためならば他人等どうなってもよいという考えを本気で持つらしい。

ここ数年で、企業は契約社員という名の何も保障されていない使い捨ての労働者を雇うことで、味をしめたのか今度は正社員までもその毒牙にかけようと躍起になっている。
ただでさえ、フリーターやニート、ワーキングプア等の多くの問題が問われる今、なぜ国民の活力を削ぎ落とす法案(ホワイトカラー・イグゼンプション制度等)が平気でまかり通ろうとするのか?サービス残業の合法化なぞ、過労死を促進させるみたいなもんではないか。

それは、政権与党である自民党の企業献金の27億円のうち、22億円は経団連企業が占めており、経団連は自民党に対して法案の成立を強制させているからだ。
成る程、中国で商売をしたいから首相は靖国神社に行くなと主張している団体だ、本当に自らの企業の利益のことしか考えておらず、国のため社会のためという考えが欠落しているとしか思えない。

社員の給料をカットすれば、どうなることなのか分からないのだろうか?
減給はすなわち、消費の低下税収の低下を招く、国債が700兆以上あるのに税収が低下すれば、政府の財政が悪化する、定率減税や特別扶養控除等を全廃させられ、ただでさえ家計が苦しいサラリーマンに対してさらなる増税が加わり、更なる消費の低下を招き、国内市場向けの企業は大打撃をうけ、失業者が溢れかえる。
少し、大げさに書いたが、経済に関しては素人の私でも容易にここまで考えられる。
経団連の連中は、海外で商売出来ればそれでいいのだろうが、そのために時には国益さえもおびやかす。
これはもう売国行為と言っても差し支えないだろう。

昨今、少子化が懸念されているが、子供が欲しくとも経済的理由のため子供を断念する夫婦は少なくない、この法案が通れば、ますます家計は苦しくなり少子化は加速するだろう。
そうなれば、経団連が目論む、外国人労働者を雇う規制が撤廃され、日本に支那人を初めとする外国人が大量に流入することになる。そうなれば、日本のあちこちにチャイナタウンができ、治安は悪化、混血児が大量に生まれ、移民者にも選挙権を認めざるおえなくなり最悪、日本が移民政党に乗っ取られることさえ考えられる。

会社というのは、本来、雇用を生み社会の安定のためにある存在だった。
それがいつしか、会社の利益のことしか考えず、自らを生み育ててくれた国家というものを一切省みることなく、あろうことか国益さえも売り飛ばそうというのだから笑止千万だ。
会社は、今すぐ利益至上主義の考えから脱却を図り、社会のために何をすべきなのかを考えなおして貰いたい、そして政府、会社、社員とか一体化することが出来れば、このグローバル化と言われる弱肉強食の世界にも対抗出切るはずである。

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by shikisima594 | 2006-11-12 13:27 | 随想・雑記
国粋主義による美術的戦略論
 以下に、学園祭で行った展示の理念をのせます。


 私たちは長い間、日本というものを守ろうと努力してきました。しかし、それはあくまで倫理とか価値観とかの観念の問題であるとされ、視覚や聴覚といった分野に独自性があることは長い間問題意識からは阻害されてきました。その結果、我々日本人は、目前にある日常生活から、日本人独自の美術をほぼ完全に消失した日本に暮らすことを余儀なくされました。つまり「和風」は、特殊な世界に追いやられてしまったのです。そしてそこでさえ、それらは風前の灯といえる有様なのです。
 これらはひとえに、我々の怠慢の結果でありました。しかし、ほうっておいて空想の世界からさえ日本的なものが消え去ったとき、やがて若い世代は、日本独自の美術など想像さえできなくなることでしょう。我々の最も恐れる事態の一つです。こうなってしまったからには、われわれは美術が重要であると認識を改め、我々独自の美術様式を守り、発展させることが急務といえます。
 しかし残念ながら、我々の付け焼刃な美術認識では、現代の認識への挑戦どころか、過去を振り返ることしか出来ません。それでも、未来を見なおすためには、原点に返ることも重要ではないかとの愚考により、今回は我々からの提言をご覧に入れ、また日本の美術を視覚的に知っていただくための展示といたしました。


 日常を思い浮かべてください。どこでもかまいません。そして、思い浮かべたものを手にとってみてください。それはどんなデザインでしょうか。あなたが気に入っているものでしょうか。
 それにどう答えるにしても、一つ確かなことがあります。確立の問題として、あなたが手に取ったそれは九割九分間違いなく「洋風」なものなのです。そうでなければ、何も「~風」に属していないものでしょう。今回の我々の問題意識は、ここにあります。
 「~風」とは、デザインの様式のことです。これらが表すものはたくさんあります。例えば、ゴシックやバロックといった芸術の特徴を現すものがあります。皆さまのファッションでは、季節感が重要とされますが、言い換えれば、今皆さんは「秋風」の服を着ているわけです。あるいは、インテリアとか、パン屋やジュエリーショップ、喫茶店やクラブに至るまで、「独特な雰囲気」の楽しめるお店といえば、皆さまは多くあげられることでしょう。それらはみな、独特の雰囲気作りに取り組んできたのが成功した、といえるのです。「~風」とはまさに、美術面の雰囲気に他なりません。
 では問題に立ち返りましょう。私たちは、その「~風」ということが、西洋風か、もしくは全くないかのどちらかの日常に身を置いているのです。アラビヤ数字やローマ文字が製品の規格に使われることに何の違和感もありませんし、美術的なものに関しては、日本的なものなどほとんどないといっても過言ではありません。
 我々の問題意識は、この日本に在来土着のはずの我々日本人が、日常風景から一切の「和風」を喪失していることにあります。


 私たちはこの状況を真摯に受け止めます。放っておけば、このまま日本的な美しさは失われてしまうのではないかということを危惧するのです。見るにつけ、その状況はより深刻に思えます。私が文章を打っている間ずっと、私はローマ文字を打ち続けています。手を伸ばすと本がありますが、記号としてローマ字が使われていないものは一つとしてありませんし、来ている服は曲がりなりにも洋装ですし、この部屋には畳がありません。ライフスタイルとしては、玄関で靴を脱ぐことを除いて、あとは全て洋式の形になります。椅子と机とベッドが基本です。観念の問題に差し迫れば、ものを計るときにはメートル法を使うことに全く違和感がありませんし、七日間で一くくりの一週間は当然とされ、また、玄関で履物を脱ぐことは全く徹底されません。ですがひとまずは、紀年法や単位やその他の観念的な問題には目をつむりましょう。それにしてもこれらのことは、これを読む方のほとんどに当てはまってしまうのではないでしょうか。
 外国のものがほぼ統一的に、全てに表示されているということは、おかしな話であるはずです。端的な例を出すなら、あなたが手に取る全てにハングルが書いてあったらどう思うでしょう。我々は現に全く変わらない条件で生活しているのです。
 なかんずく我々が問題と見るのは、五感に関わる和風が日常には全くないことです。我々の目するところでは、これらは日本の独自性を思い描くことができる唯一の手段です。視覚や聴覚や味覚から日本的なものが全く消えたとき、我々はその感性の重要な部分を完全に外国に依拠することになるのです。江戸時代は、全てが和風な世界であったのです。都市から農村、工場製品から手製作品、伝統芸術から新しいファッションに至るまで、それは例外ではありませんでした。そう思えば、現代のようにすべてが外国風になった日本の特殊性が浮き立つと思います。日常には他者がありふれ、自己が存在しない。我々は、問題のありようをこう受け止めています。こんにち、日本のほとんど全ての場所において、そういう意味での日本はありません。


 一体、この問題はどこに発するのか。私たちの結論は、はっきりしています。それは、我々の精神でありました。では、我々の精神のなにが問題であったのか。今度はこれを振り返る必要があります。
 これを説明するのにちょうどいい例があります。それは、明治時代初頭の歴史の流れです。今から百数十年前、我々日本人は、西洋諸国に開国を迫られました。そしてそのとき日本人は、自ら積極的に西洋の文化を輸入し、あとに植民地化を自力で防いだ唯一の民族として賞賛される近代化の礎を築きました。問題はこの過程でうまれています。我々は西洋人から技術を学び、技術産業大国の体勢の足がかりを作り上げました。一方で、「文明開化」と呼ばれる文化な変化がありました。人々は髷を落とし、洋装を盛んに真似し、肉食を始めました。これは、明らかに必要ない文化の輸入でありました。問題はここに見出せます。これは高度な文化の輸入などではなく、単に外国の文化の輸入であったのです。
我々の立場はこうです。日本は、植民地化を逃れるために、近代国家に必要な常備軍の設定だとか、西洋の工業性機械工業や、国家の指揮系統の編成を行わなければならなかった。そしてこれは成功したわけです。ところが、肉食だとか洋装だとかの文化は、単に民族性の違いであって、それには文化の程度の上下がなかったといえるのです。にもかかわらず、明治の人はこぞってこれを讃え、文明開化の音を鳴らしていたわけでありました。本質的には、これは技術の導入とともに、別に行われた美術の西洋化であったのです。技術には明確に優劣がありますが、美術にはそれが無いのです。技術と美術では、条件がずいぶん異なるのです。


 もちろん我々は、そうでなければ西欧諸国に植民地化されるのではないかと心配した祖先を、笑う立場ではいられません。いずれにしても彼らの真摯な態度が、その後のわが国の発展に大きな貢献をしてくれているのです。しかし、そうであればこそ、我々はその状況をほうっておいたことを反省する必要があるのです。例えば明治にもそうですが、後代大正昭和にかけては、失われた日本美の再考や嘆きがかなり盛んなこともあったのです。そうして日本人の美術意識を再発見した方はいたにもかかわらず、現代にいる我々は、先人の話には耳も貸さなかったということになります。

 そうして改めて現在を見渡せば、定着してしまっているといっても、理不尽なことがあるのに気付かされます。
例えば、洋服は筆頭に上げられますが、これは明らかに異国の衣装です。我々は不自然を感じてはいませんが、もしこれを普通というなら、チマチョゴリや、ポンチョや腰みのやスカートが社会的に通用しているのと変わらないというのに等しいのです。すくなくとも、異民族のものであるという条件は全く変わらないのですから。
 しかし、それは定着してしまっていますから、なかなか直そうとは思われないことでしょう。もはやわれわれは、かつて独自だった文化をしのんで、そこにかろうじて民族のアイデンティティを見出しているにしか過ぎないのです。残念ながら、そんなものは社会からとうに追放されてしまっているのですが。これが時間とともに定着が進めば、わが国の文化は、少なくとも独自の美術に関しては、文字通り消えてなくなるに違いありません。
 現在日本人の中に、日常を和服で過ごしている方がどれだけいるものでしょうか。ほとんどの方が、着ていないに違いありません。もちろん、一部の特殊な職業では、和服を常用することもありましょうが、あくまで特殊な例にとどまるものです。


 始めに申し上げたとおり、我々自身は、これに関しては怠慢であったと考えます。何を怠っていたのかといえば、とにかく現状を問題意識に加えなかったということです。我々とは、わが会を含めた政治思想の持ち主です。我々のような思想は概して「保守派」といわれます。我々は、これまで続けてきた民族なり国家なりという立場に立って、それらを続けていこうとすることを共通の認識とします。伝統文化だとか国体だとかを守ろうとすることが我々の主張であったのです。ですから、我々を含めた「保守派」の立場を掲げる者が、ほぼ例外なく洋装に身を包んでいることには、本質的で致命的で喜劇的な矛盾があります。まず、話にならないと言っても一切差しつかえはありません。それとも、例えば美術は別に守るべきでないという人があるなら、では何故彼が着ているのがポンチョでもパジでもペニスケースでもなく洋服なのかと批判できます。彼はつまり、美術においては完全に西洋文明に屈しているということになるのです。
 
 
 ところで、ことわっておかなければならないことがあります。正直なところ、ここで申しているのはイデオロギーです。これには弁解の余地はありません。我々は民族を守ろうとしているのです。そして、こうした直接的な言葉を聴くに際して、皆様はわれわれには関係ないと思われるかもしれません。それは確かに的を射ています。ですが、どうかもう少しお付き合いください。
 まずは、ここに際して、我々が反省しなければならない点がもう一つあります。宣伝をおろそかにしたことであります。ここでは、「我々」はイデオロギーを持っているものの大半を指すことにいたします。我々はイデオロギーというものを一般の人々に敬遠させた行いを反省する必要があります。


 じつは、イデオロギーというものはそんなに大げさなものではありません。例えば、大きな視点では、例えば「日本」という認識そのものをイデオロギーの一つとして考えることができます。ですから、どんなに些細な会話でも、「日本」と口にしたなら、その会話はイデオロギー的といえるでしょう。あるいは、民主主義は立派なイデオロギーです。多数決が良い政治を産むと考えるのは、必ずしも世界に一般的でありません。あるいはもっと敷居を下げて考えることができます。たとえば美術的な指向は、一種のイデオロギーなのです。もっとも、単に何が好きというのではなくて、それがどうした理由からとか、論理を説明することが、イデオロギー的といえるのです。そういう風に考えると、これは結局日常的なものなのです。我々はイデオロギーとしてこの問題意識を始めますが、この問題は美術にしか関しません。ですから、この考えは一つの美術論だと考えてください。民族、或いは民族主義だという言葉は、これも非常に重たい響きがあり、口にしづらい言葉です。我々自身がそうしてきたということも重々承知の上です。しかし実際には、我々がしたいのは和風を日常に取り入りこむことだといえば、これにはそうまで重たい感じはともなわずにすむものと思われます。後で述べますが、これを外国人も積極的に行うようになれば、視覚的に世界の多様性が明らかになって、すばらしいと思うのですが。
 そしてもう一つ明らかにしたいのは、我々の問題意識の対象はあくまで芸術の分野にとどまることです。イデオロギーと聞くとどうしても暴力的な印象がありますが、革命だとか闘争や工作転覆がイデオロギーの本質ではありません。人を納得させることにイデオロギーである意味はあります。そういう意味では、もちろん、「保守派」もこの例に漏れませんが、今はいかなるイデオロギーも、ほとんど目的が果たせていないことになるのです。ひとまず我々は美術に注目し、このもっとも平和的な手段としてからの呼びかけが重要だと捉えています。

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 まず、この写真を見てください。

 これは、アイルランドに伝わる聖書の写本の一部です。「ケルズの書」といいます。ご存知の方もいらっしゃるでしょう。これは、「普遍宗教」のキリスト教聖典の写本ですが、アイルランド人は、得意のケルト文様でキリストを表した文字を装飾しているのです。キリスト教は、世界に統一した価値を伝道することを目的としています。しかし、この画像を見る限りでは、この「国際的な真理」は、もっとも国粋的な美術によって飾られているのです。
 こうして目にするケルト文様には、有無を言わさずケルト的な雰囲気があるのです。例えばこれを見て、どんな感情をもったかということで問えば、人によってまちまちな意見になるかもしれません。しかし、これがどの民族に属するかということできいたとき、誰が見てもこれは、有無を言わさずケルト的なものなのです。
 このアイルランドの国宝は、決して純粋アリアン民族の伝統をあらわすゆえにナチスに利用されたり、イングランド美術の正統であるとして大英帝国博物館に飾られたりはせず、誇り高いケルト人の末裔であるアイルランド民族の独立自尊の究極として、アイルランド人の象徴の一端を今でも担っているのです。ですから「~風」という意識には、直接感覚的な「民族」があると見るべきでしょう。逆に言えば、「民族」という言葉には、もともと美術的な要素も含まれているとも見ることができるわけです。
 それにしても、我々が失った精神の一端の要素は、この一枚の絵に凝縮されているように思われてなりません。その精神とは「最もナショナルなものが最もインターナショナル足りうる」という思想です。世界とは、文化の独自な国々の総合です。もし「国際化」ということを「国際的な標準にあわせること」だと考えるのであれば、それは全く誤りであります。なぜなら、それは「境目をなくすこと」と同義であり、「たくさんの国がある世界」ではなく、「世界を一つの国にする」指向をもった発想であるからです。それにしても、美術がこれを非難しないのは、全く美術論の怠慢であるといわざるを得ません。なぜなら、多様性の確保は、美術論の重要な使命の一つであるからです。


 こうして追ってまいったの話は、つまり文化を芸術と技術に分けて考えてきました。芸術には美術も、或いは娯楽を好む精神も入ります。一方、技術には、生活で必要とされるものや、便利さを求める精神が入ります。
 では、我々のようなものがこれまで主張してきたのは何であったのでしょう。それは、このどちらでもない、価値観か、目的精神というものでありました。具体的には、わが国の国体なり建国の理念や宗教観などの根本的な発想のことです。誤解を招かないように申しておきますが、我々はこの価値観を無視するわけではありません。これが重要でないといえば、その時点で我々はただの芸術主義者です。しかし我々は、こういう観念の世界をあまりに強く押し出してしまいました。その結果として、芸術と技術を重んじる一般と我々のような頑固な観念主義者との間には、見事に溝ができてしまったのです。
 今一度、その溝を取り去ろうとすれば、それに必要な能力とは何でしょうか。我々の考えでは、それは美術を解する力です。我々にそういう風流心がないなら、我々には美術芸術を育てる力が皆無だということになります。
しかし、芸術には時代にあわせた流れがあり、常に変化しながらではないと残らないのです。実際そうして我々が和装をしなくなったせいで、それがファッション化し洗練され、現在でも文化として活きている可能性は無に帰してしまったのであります。我々が和服を百年前の流行のカタに押し込め、手間がかかるものを手間がかかるままほうっておいて、それがある日文化として活きる可能性など無に等しいのです。もっとも現代ファッションとしての洋装ということでは、日本の先端は世界最高水準といわれています。今後是非その力を、和装のファッション化に向けていただきたいものです。
 あるいはまた同時に、一般の感覚にあわせることをしないせいで一般に理解されず、結局今に至っては、我々の問題意識が我々以外の誰かに伝わることがほとんどなくなってしまっているのです。

 我々は、文化を「生かす」必要があるのです。その有効な手段がなければ、目的についていくら話をしても無駄にならざるをえないのです。ですから、文化を創ることを考えなければなりません。


 また、もう一つ申さねばならないことがあります。これは芸術の自由をなくそうという試みではないことです。

 我々の考えが自由な芸術を全く脅かさないかといえば、それはそうでもありません。われわれは内外に自分たちの排他性を認めなければなりません。我々は和風以外のものを、「日本のもの」と認めるわけにいかないのであります。西洋化の結果が、我々の民族に大きな影響を与えることだけはなんとしても避けておきたいのです。しかし逆に「外国のもの」という前提でわが国にあるものは、別段かまうことはないはずです。
 そうして消極的な形の考えばかりではありません。ことはうまくすれば、芸術をより加速させる手段ともなりうるのです。

 というのも、一つには、我々は和風であることを条件とするなら、ひとまずその下にどんな多様性があってもかまわないと考えるからです。よく勘違いされることがあるのですが、例えば、もし我々の考えが成功を収めて、日本人の服装が和風だけになったとしても、それを多様性の喪失とは受け止めるべきではありません。なぜかといえば、「~風」とはそんなに種類を欠いたものではないからです。
 例えば我々日本人は普段洋服しか着ていないにもかかわらず、多様性がないと感じる人は現に出ていません。洋服にはその下にたくさんの分類があって、美術的な多様性があるからです。民族性というものは、さまざまな美術的な要素の中でもかなり大きな部類の類型に入ります。和風というものも、その下のカテゴリーにずいぶん余裕のある表現なのです。つまるところ、和風にも現代性や、ゴシック調やルーズ性やカジュアルは期待できるのであって、そのいかんはひとえに我々の創造意欲に左右されるものであるのです。また或いは、消防服や制服に至るまで、和装の種類を広げることも不可能ではありません。

 もう一つ、芸術に貢献できそうなことには、視覚的な国際性が我々の胸を躍らせるということがあります。我々は、他者がどういうものかをはっきり捉えることができれば、同じだけ自画像がはっきりしてくるものなのです。つまり、さまざまな民族が自らの独自生を持ち寄れば、互いに刺激しあうのではないか、という提言です。ですから、例えば上海風なりイタリア風なり、イロコイ風なりバリ風なりマオリ風なり、なんでも結構です。「西洋風」以外の全ての文化は押され気味ですから、むしろもっと積極的に出ることを応援するべきだと考えます。そして、相互に影響し、よりお互いの文化を緻密に創っていくという未来が、我々に秘められているかもしれないのです。平和的・共生的な民族の発展は、案外国粋主義に鍵があるかもしれません。


 ここで改めて、以下のことを提案しようと思います。つまり我々は、民族独自の美術様式や芸術を発展させ、技術は革新と発展を求めつつ、価値観などの倫理的諸要素は変えずにのこすという思想です。
 この名前は何でもかまいませんが、とりあえず「国粋発展主義」といっています。しかし、あまり風流な言い方でもないと思われますので、自粛いたします。
 先ほどから何度もお断りしているとおり、これは、失われた領土の回復であるとか異民族追放といったすべての暴力的イデオロギーとは異なることを主張します。新たな民族運動は、既存の問題意識を修正したうえで、全く新しい形で行われなくてはなりません。平和的な民族の回復、それは、失われた五感文化の復活であります。これは、西洋化に対抗する具体的な手段として、最も穏便かつ最も効果があるものと考えるのです。


 しかしこのような考えの下にもかかわらず、今回の展示には、既存の文化が生み出したものを、しかも、我々の手には全くよっていないものを展示するしかありませんでした。
 誤解のないように申しておくに、我々は革新だけを求めるものではありません。しかし我々は、文化に古いものと新しいものがあるという状態が、文化の多様性ということではかなり重要な要素であると考えるのです。だから和風に現代性がないことを残念に思い、新しいものを創造するという発想を皆様にお届けしたいのです。

 いい訳のできない事実があります。先に述べたように、我々には美術的な才能がはなはだ乏しいということです。一般にいう「ウヨク」の具体的なイメージひとつで、その説明は十分に補えるところでしょう。このイメージも、我々が作り上げてきたようなものです。我々は何かいつも余裕のないせいで、いつも他者の視線を無視してきたのです。このことは、社会を先導する目的の上で、具体的な欠陥の一つに数えられます。実際の我々は、流れを新しい方向に導くどころか、それを踏まえることすらおぼつかないのです。
 ですから、皆様の力をお借りしなくてはなりません。江戸時代の文化が、活きた形で若い人々に受け継がれていたとき、今どんな姿であったのかということを想像していただきたいのです。つまり、我々が怠ってきた和風の進化を、皆さんの考えの中で補っていただきたい。古典的な表現しかできないことが悔やまれますが、和風なものに、斬新で格好よく洒落たものがたくさんあったら、どんなにすばらしいことでしょう。我々の目的は、失われた文化を、あるべきはずだった何かを、取り戻すということにあるのです。


 文責 ムネカミ

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by shikisima594 | 2006-11-09 16:29 | 随想・雑記
これが国士舘だ!!
 大学入試の時期が来た。せっかくなのでたまには母校・国士舘大学の紹介でもしよう。この映像をご覧いただきたい。これは国士舘大学創立五十周年を記念して製作された記録映画だ。

 断っておくが、この映像は全て大東亜戦争後の、昭和四十年代前後のものである。舘歌(普通の大学でいうところの校歌)にも「皇国に殉す大丈夫の ここ武蔵野の国士舘」と歌われている。尊皇・殉国の至誠に満ちた日本人、すなわち国士を育てるために国士舘の存在意義はある。

 大学受験を控えている高校生諸君にかぎらず、多くの方に是非ともご覧いただきたい。国士とは、教育とは、人間形成とは、日本人とは何かを考える一助になるだろう。全体で四十分ぐらいの映画だが、最近の映画やドラマ、YOU TUBEで流行っている映像より面白いはずだ。少し内容を紹介する。

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はじまりはじまり〜。

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国士舘の創立者達。前列左から頭山満、野田卯太郎、渋沢栄一、徳富蘇峰、後列右が柴田徳次郎。

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当時、世界一の広さを誇った剣道場で毎朝早朝から行われた剣道の稽古。

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昭和天皇の御誕生日である四月二十九日に東京の日比谷野外音楽堂で行われた、天長節奉祝大会。舞台右手には「国賊共産党を撲滅せよ」のスローガンが見える。

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同じく天長節奉祝式典で野外音楽堂を埋める学生達。手には日の丸の小旗が握られている。この後、総長の音頭で聖寿万歳。

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五月二十七日、戦前の海軍記念日。全校をあげて祝賀行事が行われ、旭日旗を先頭に学生達が分列行進で入場。

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学生達の行進を敬礼して観閲する柴田徳次郎総長。

 多分この映画を見た人は、思想に関わらず何らかの“衝撃”を受けるはずだ。拒絶反応をおこして嘲笑う者もいるかもしれない。しかし、ここにおいてこそ、教育の神髄とでもいうべきものが存し、人間修養と日本精神の顕現がある。残念ながら、現在では当時の校風と違っている部分もあるが、国士舘の根本とはこの教育に他ならないと自分は信じる。

 是非ともこの校風と教育に憧れる高校生諸君は国士舘をめざしていただきたい。また、それ以外の方は、こうした大学が存する事を記憶にとどめ、国士舘とはこのような教育理念を持っていると広めていただきたい。

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by shikisima594 | 2006-11-08 01:22 | 随想・雑記
拾萬来訪達成感謝!
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 去年の十二月十二日にブログを開設して約一年がたった本日十一月七日、ついにアクセスが100000に達成いたしました。毎度御訪問され、ご覧下さり、さらには「応援のクリック」をクリックしてくださった皆様、本当にありがとうございます。

 思えば、ブログ開設以来、日経新聞による富田メモ、北朝鮮によるミサイル発射に核実験、そして毎日新聞佐賀支局の在日記者による不敬質問など、多くの事件があり、それらの事件を機に我々自身も日本とはいかなる国であるか、これをどう守っていくかを考えさせられました。

 そもそも、このブログは、後醍醐天皇に忠義を貫き、赤坂城、千早城にこもって孤軍奮闘して鎌倉幕府を倒した大楠公こと楠木正成公の精神を汲んで、ネット上の一角に築かれた小さな“千早城”たらんと思って設立いたしました。

 大楠公が赤坂、千早で孤軍奮闘する様に、全国の草莽志士や武士たちが呼応して立ち上がり、ついには旧体制たる鎌倉幕府は倒れました。一人一人の誠が結び付いた時、時代はまさに動くのです。そうした意味で、このブログに大勢の憂国の赤誠に燃える方々が集ってくださったこと、本当に嬉しく、かたじけなく思います。ありがとうございました。

 また、現在では開設当初と比べものにならないほど、多くの方がこの皇国史観研究会ブログをご覧くださっています。そして身に余るほどの叱咤激励をちょうだいしております。力不足をお叱りの声もございますが、そうした声も受け止めて今後も精進してまいりたく存じます。今後とも皇国史観研究会ブログを宜しくお願い申し上げます。

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by shikisima594 | 2006-11-07 23:34 | 告知