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文化国粋主義という考え方 〇〇一
 前回、私は愚考を既存の思想と区別すると宣言いたした。こうして、せっかく文化国粋主義を宣伝する機会を得たので、これからしばらく、この詳細を皆様にお伝えいたしたい。

 私は文化国粋主義という思想を以下のように導こうと考える。以後、以下のとおりに章をさいて説明に努めたい。今回は、この紹介にとどめる。

 本論
〇一、現代を、文化混合の躍進した望ましからざる時代と捉え、
〇二、民族の純粋性を求める意志のもとに、
〇三、風習・論理と独自美術とからなる民族独自文化を、発展させる目的を持ち、
〇四、技術が普遍的であることを認め、
〇五、民族独自文化の万物諸事の基点を、諸外国の影響の無い伝説時代に求め、
〇六、今日の万物が出来上がった現実の過程から、諸外国の影響が全い状態が連続した過程、つまり、単に技術的な水準が上がる過程を想定し、現代の技術段階における、万物の適切なあり方を想定し、
〇七、これを万物の、現代における本来のあり方と認識し、現実の万物をそのように改める。

 補足一
〇八、社会のありとあらゆる事象を、民族独自化することを目的にするため、
〇九、現代の美術文化における、民族性の回復を優先し、
一〇、より大衆の意識や大規模情報媒体に近づく努力をする。

 補足二
一一、民族の共存共栄を志向するため、
一二、また相対的視点の確保のために、
一三、他民族にも同調を促す。

 補足三
一四、民族の共存共栄を志向するため、
一五、本来の国際関係は族際関係であるという認識を持ち、
一六、文化的に完全に中立、つまり、民族独自文化によらない事象を、本来族際関係に望ましい事象とみなし、現実の国際関係において、その実現を志向するため、
一七、西洋的文化が、国際関係社会に深く取り入ったことと、それにより、世界で西洋的文化が圧倒的優位を保っている状況を反省し、
一八、各民族は連帯し、国際関係社会から民族独自文化の影響の駆逐に努める。

 ご意見にお答えできる暇があるかどうか、恐縮ながらわからない。しかし、賛否とも歓迎する。
 我々は、確実な方法で民族の秩序を成し遂げなければならない。そのために思想さえもを諦めることは、あってはならない。
 だがそれには条件がある。自明のところではあろうが、理想が根本的に違う相手とはそのような方法論を行えないのだ。だから、根本の意志を通わせるところが前提とされなければならない。それとは、以下のような意志である。

 我々は八紘為宇の理想を完成させ、成し遂げなければならない。これは、その新たな手法を作る過程に他ならない。ここに再生する世界的理想も含めて、我々オオヤシマ民族が回帰するべき、原点と考えることができるのである。

 ムネカミ

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by shikisima594 | 2007-01-31 16:59 | 随想・雑記
魔女裁判を正当化!
「昭和天皇は従軍慰安婦問題に関して国の最高責任者として十分な措置を取らなかったから、有罪。」という“判決”が下された。平成12年にオランダのハーグで開かれた「女性国際戦犯法廷」というもので、日本と韓国の極左活動家、それに北朝鮮の工作員等がやらかした日本を徹底して貶める学芸会で、もちろん、正式な法廷でも、明確な法規範によるものではなく、全くの結論ありきの魔女裁判である。

 判決文の末尾は「人道に対する罪としての強かんと性奴隷制の個人責任を負う」とされているが、少しでも法知識のある人間が読めば、この“裁判”が裁判の名を使っただけの極左の幼稚なデタラメパフォーマンスであることが分かる。

 まず、「人道に対する罪」とは当時制定されていない完全な事後法であり、それだけでもすでに論理が破綻している。さらには性奴隷制というのは、朝鮮人による戦時売春のことであり、これを無理に“従軍慰安婦”なる存在にでっちあげ、あたかも日本側に賠償責任があるかのように言いつのるが、朝鮮人が勝手にやった売春行為に日本が何等の責任も負い得ない。

 さらに「個人責任を負う」とあるが、これは天皇のご存在と、そのあり方から考えて絶対にあり得ないことである。天皇・君主に私無し、は立憲主義国家の大原則であり、天皇の御行為は全て国務大臣の輔弼と助言を受け、その結果に関しては国務大臣が責任を負うのであり、天皇は責任を問われないのが原則である。それがつまりは大日本帝国憲法における「神聖ニシテ侵スへカラス」に顕されるのである。

 そうしたことからも分かるように、こんな噴飯ものの茶番劇をマトモに取り合おうとすること自体、狂気の沙汰である。ところが、受信料泥棒のNHKはこの魔女裁判を「戦争をどう裁くか」と題して放送しようとした。もしこれがそのままなされていたなら、公正中立を定めた放送法への重大な違反行為であり、大問題になっていただろう。

 国会議員等からも、放送内容の吟味が要請され、放送にあたっては、この裁判自体にも批判的な視点を取り入れての放送となったそうだ。そうするとこの茶番劇を仕掛けた極左団体は「番組を改変した」としてNHK相手に裁判を起こした。本当に裁判が好きなオカシゲな連中で、いづれ厳正な審判の前に散ることだろうと思っていた。

 ところが29日、東京高裁の南敏文裁判長は「国会議員らの発言を忖度して番組を改変した」と述べ、NHKと制作会社に総額200万円の支払いを命じてしまった。おいおい、じゃあアンタはNHKに堂々と「昭和天皇は強姦で有罪!」という内容を放送法違反でもいいから流せというのかい?

 上述のように、この「女性国際戦犯法廷」は到底、法を踏まえた公正なものではなく、政治的色彩が濃厚で、それどころか北朝鮮の工作員も加わっていたとされるものである。これをそのまま公共電波で放送することが正当化され得るはずがない。

 ところが、今回の東京高裁の判決は番組の改変を不当とすることで、「女性国際戦犯法廷」の内容を暗に正当化するという司法の自殺的な判決となっている。この判決がもし最高裁でも認められることになれば、我々日本人は自らの手で第二の屈辱的「東京裁判」の判決を自らに下すことになるのである。そんなことは絶対に認められない。

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by shikisima594 | 2007-01-30 23:20 | 随想・雑記
遊就館の展示変更
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 去年の本ブログ9月17日の記事10月13日の記事で、靖国神社の戦史博物館である遊就館の展示内容がアメリカの政治家と、岡崎久彦らから批判され、展示内容が変更されるのではないかという事を書いた。

 遊就館では、幕末の外圧による開国、明治維新、日清・日露の戦役、そして大東亜戦争にいたるまでの、国史の中で御祭神にまつわる歴史を記しているが、自虐史観と唯物史観が跳梁跋扈する現代日本では、指折りの透徹した識見に満ちた展示がおこなわれてきた。

 ところが、その展示が「反米的である」という理由でアメリカや親米派から批判されたわけだが、そもそもアメリカとは戦争をした間柄であり、その記述となれば“反米的”になるのが当然の理で、ならぬ方がおかしい。それに歴史観が同じでないからこそ戦争になるのである。

 ところが、去年の10月には靖国神社崇敬者総代会が、こうした批判を受けて展示内容の変更を決定してしまった。どのように変更されるにせよ、中国や韓国からの批判は聞き流し、アメリカからの批判にはすぐ応じるように受け取られかねない対応は不適切であったと思う。

 事実、毎日新聞などは「中国や韓国がいくら批判しても訂正しないのに、アメリカが批判すればすぐに訂正するとはどういうことだ。」というように噛みついていた。そうなれば中国や韓国関係の記述変更もせざるを得なくなる恐れがあるではないか。

 そして、先週。遊就館の記述変更が完了して、その全容が公表された。毎日新聞の報道によると、記述変更箇所は日米交渉、満州事変、支那事変などで、やはり結果的に中国関係の記述も変更ということになってしまったようだ。以下、毎日新聞1月21日付。

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<靖国神社>博物館「遊就館」の記述 今月から7項目変更

 ……変更のきっかけとなった「ルーズベルトの大戦略」のパネルは「(日本)参戦によってアメリカ経済は完全に復興した」のくだりを削除。変更後は経済問題に触れず、ルーズベルトが反日世論の誘導に努めた事実だけを記述している。

 「日米交渉」のパネルでは、当時のスチムソン米陸軍長官の日記を新たに示し、米国側に日本を開戦に追い込む意図があったことを示した。

 「支那事変」のパネルでは、日中関係悪化の原因として中国側のテロだけを挙げていたが、新たに「日本軍の北支工作」も併記した。戦線拡大の原因は「日中和平を拒否する中国側の意志」としていたが、「中国側の反日機運」と表現を弱め、「中国正規軍による日本軍への不法攻撃」という記述を削った。

 同じパネルの、「中国正規軍による日本軍への直接攻撃」という記述は「蒋介石による」と明記。盧溝橋事件の発端についても「中国側の銃撃」、第2次上海事変の発端は「中国側の挑発」と新たに書き加え、中国側に開戦の責任があると具体的に示す内容になっている。
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 その内容を見てみると、「大東亜戦争は米国と中国に責任があり、日本にとっては追い込まれた末の自衛戦争だった」とする遊就館の従来通りの展示方針に基づき、展示内容を補強するように変更されている。親米派の岡崎久彦に批判されたから媚米的に改竄されるのではないかと心配していたが、怪我の功名だったかもしれない。

 しかし、常日頃から「保守」を自称しつつ、アメリカが文句を言えば、それに付和雷同して、アメリカと戦った英霊たちが祀られる靖国神社を批判して恥じない岡崎久彦など媚米派の存在を閑却してはなるまい。彼等こそ大いに批判されるべき者である。

 それはさて置き、展示内容もますます補強された事であるし、遊就館には近代日本の礎となった英霊の事が、自虐も屈従も排して展示されており、日本人ならば是非ともご覧になった方がいい。

タカユキ

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by shikisima594 | 2007-01-29 19:10 | 随想・雑記
科学に対する否定的見解
 昨今、考古学の知識が一般に広まるにつれ、この中での我々の起源に関する説話が常識化している。

 いわゆる「縄文人」と「弥生人」という認識を筆頭に、「南洋系」と「大陸系」、「マレー系言語」「朝鮮語の影響」「ドラヴィダ語起源説」などの認識である。最近では、「新たな入植者である大陸の弥生系の人たちが、先住民の縄文系の人たちを南北に追いやり、北部はアイヌ、南部は沖縄系の人たちになった。」だとか、発展して「日本人は、先住民アイヌを本州から駆逐した」だとかいう認識が一般社会にも広まりつつある。

 実はこれらには、学術的な反論がいくつも行える。だいたい、マレー朝鮮ドラヴィダといった各言語が先にあって、オオヤシマ民族に影響があったと考えるのは根拠がなく、反対にオオヤシマ語が先にあって、彼らに影響したと考えることができるはずなのだ。あるいは、縄文期と弥生期で人種がまるで違っているというような話を鵜呑みにしやすいが、実際には出土する遺骨には、そのようにはっきりと時代によって人種に境界があるわけではない。ある程度の傾向は否めないが、それも、種が同じでも、骨格や顔つきも食べ物や環境の変化によってはまちまちに変化するということがある。そして、今でも同じ日本語をしゃべる人々の顔つきは一定ではないではない。顔つきが違った、人種が違ったからがそのまま民族が違ったという話に切り替わるのは、いまだに考古学者の頭の中で民族と人種が等式で結ばれているからであろう。

 さて、少し前置きが長くなったが、これらは真に私が言いたかったことではない。私は科学からすれば、かかる思考が可能とは思っている。しかし、科学というものの恐ろしさからすれば、この指摘も的外れであったと考えを改めなければならぬ事態となる。

 例えば、「縄文人と弥生人の対立」という認識に関して、更に煮詰めよう。いや、ここで出す例は何でも良い。例えば「氷河期には日本列島は大陸と陸続きで、日本海は巨大な湖だった」とか、「太古の日本人は採集狩猟生活を営んでいた」だとかいうもろもろの言説すべてについてでもよいのだ。とにかく、縄文人と弥生人が戦った末、オオヤシマ民族が出来上がったという見解がある。だがあえて言わなければならないことには、最初からいたオオヤシマ民族を、それらを作った神たちの子孫であらせられる天皇が知らすという我が国の国是は、一体どうなるのだろうか。

 私は、国体の意義を信じる者以外の全ての人がこれを信じていることについて、ひとまずは何も咎めるつもりはない。しかし、国体の意義を信じる者は、これらの言説が明らかな誤りであることを認めなければならないと考える。非常に簡単な指摘に今回の論題が凝縮される。科学と伝説は、完全に分別して考えなければならない。我々に伝えられた古伝では、我々は神々の被造物となっている。我々だけではない。島々、日月、草木、花鳥風月はこの際、全て同じ神たちによって作り上げられた同胞たちなのである。

 どんな形であれ、科学の認識を持っているものは、その延長に認めなければならないことがある。それは、天地も国土も人も何もかも、神によって作られたものなどないということである。神や霊魂など、この世に存在しないのである。もちろんあの世も存在しない。
 しからば、天壌無窮のご神勅などといっても、そもそもそれを下す天つ神なぞいるわけがなく、だいたい高千穂に下ってきた宮様方というのも、空から人が振ってくるわけなどなく、ひいては天皇が天皇たる由縁はことごとく嘘であるとしなければなるまい。天皇は、嘘によって祭り上げられたのだと。

 だとしたら、所詮民族だとか文化なぞ、恣意に作り変えることができる可塑性ある何かでしかないのである。民族において永遠に変わらぬものなど一つとして存在しないし、国体など、我々が十万年も歴史をつめば、一晩の夢でしかなかったということにだってなりかねない。天皇が当初いなかったのだから、その後どうしようと大した問題として扱われるべき由も無いのである。否、我々が存在する意義などというものは、一つ残らずうそであるということになる。

 考古学の発展がもたらした我が国の歴史論は、一つとして我々に有益な情報をもたらさなかった。そればかりではすまない。我々の起源が科学的に説明され尽くした挙句には、我々は天皇と一緒にサルの一種にまで遡らなくてはならない。それが哺乳類、爬虫類、両生類、魚類、そしてホヤの一種、ゆくゆくは、一個の小さな微生物である。それはたんぱく質の合成化合物というべき状態に近く、所詮一つの物質にほかならぬという虚無論の果ても果てのところに、落ち着かざるを得ないのだ。

 なんとも心苦しい限りである。これらこそ大嘘である!
 私はこれら科学的な認識を、完全に否定しなければならない。我々はサルの子孫などではない。断じて天皇は征服王朝の後裔などではないし、大八洲民族は混合民族などではない。我々はあくまでもあめつちとともに神々に作られたのであって、それらは神話に伝えられたところと一致するのである。

 そのように信じないのであれば、国体の意義を説明することなど、できないのではあるまいか。

 ムネカミ

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by shikisima594 | 2007-01-28 23:58 | 随想・雑記
民団が公教育に介入
 大阪市立加美小学校で、授業が行われている校舎内で平然と在日韓国人によるキムチ販売と、日本人生徒に対する朝鮮語授業が行われているという、真悟の会・堺による告発がなされた。ふつう、自分の子供を学校に預けた親は、教師を恐れて、いくら偏向した授業がなされていても、それを批判・告発できずにいるだけに、この告発には心から敬意を表したい。

 そこで、こうした大阪の公教育と在日との関わりを少し調べてみると、「民族学級」なる聞き慣れない言葉が浮かび上がって来た。これは一体なにか。在日本大韓民国民団が発行する民団新聞に「大阪北鶴橋小の民族学級が50周年」という記事が掲載されており、この「民族学級」のできるまでの経緯と、現在のあらましを記されている。

 それによると、大東亜戦争敗戦後、それまで日本人だった朝鮮族は韓国国民、あるいは北朝鮮国民ということになり、独自の民族学校をつくろうとしたところ日本政府とGHQが反対したので、民族学校をつくるように要求運動を起こしたそうだ。字面だけ見ると、いかにも日本政府が驕慢で在日朝鮮人が弱い立場のようだが、当時は事情が違う。

 というのも、当時の在日朝鮮人は日本国民であったにも関わらず、日本が敗戦するやいなや勝手に自らを戦勝国人・三国人と名乗り、略奪、強盗、暴力など横暴の限りをつくし、日本の警察が手出しできないのをいいことに、警察署を襲撃するなどしていた。このため警察が自分達の手に負えないから任侠に手助けを頼み、ヤクザと衝突を起こすことも度々であった。

 そういった当時の在日朝鮮人が今のように、地道で平穏な署名集めや、ビラ配りの“運動”をすると思う方に無理がある。それが証拠に、在日朝鮮人が最も多かった大阪と神戸で反対運動が熾烈になされた結果、昭和二十三年六月に大阪府知事が在日朝鮮人たちとの間に、民族学校の認可と公立学校内での民族学級開設を認めさせられたのである。

 当初の要求は朝鮮人自らの民族学校開設のみであったにも関わらず、主権喪失した戦後のどさくさに紛れて、数にモノを云わせて日本の公立学校内に民族学級を開設させることまでも認めさせたである。これはどこからどう見ても、民団が日本の公教育に介入しているとしか言えない。

 本来、公立学校とは基本的にその国の国民が払った税金でまかなわれ、その国の国民を育てるための教育が行われる。たとえ外国人であっても、公立学校に入った以上はその教育を受けなければならない。

 ところが、この民族学級なるものは、日本人の税金で朝鮮人に朝鮮の歴史と言葉を教えるのである。どうしても朝鮮の言葉と歴史を学びたかったら、それを教えてくれる私立学校か、朝鮮学校にでも行くか、帰国すればいいのだ。そうしないで、日本人の金を使って自分達の子供を自分達の都合のいいように育てるのは“寄生”である。

 しかも、こういった教育のひずみが半世紀以上も続いて来たがために、大阪の民族学級を有する学校では前述の加美小学校のように在日の教師が日本人生徒に朝鮮語を教えているというのだ。朝鮮人は日本に統治されていたとき、日本語を教えられたことをもって「皇民化教育だ!」というが、年端も行かない日本人生徒に朝鮮語を教える教育とはいったいなんなのだ。

 さて、その民団の綱領を見てみると「大韓民国の国是を遵守する在日韓国国民として大韓民国の憲法と法律を遵守します。」とうたわれている。だったら、それは韓国に帰ってからいくらでも“遵守”してくれよと思ってしまう。郷に入れば郷に従え、日本には日本の法と、教育、国是があるのだ。

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by shikisima594 | 2007-01-27 23:59 | 随想・雑記
在日が小学校を乗っ取り!?
 日本で一番エキセントリックな都道府県はどこかと聞かれたら、迷う所だが、多くの人は「大阪」を思い受かべるのではないか。(大阪の一般市民の方、すみません!)いつも多くの人々の期待(?)を裏切らないまでの事件が起きる。

 その大阪に関する事でエラいものを発見してしまった。「真悟の会・堺」ブログでみつけた記事と画像だ。まずはこれを見てほしい。

「DEEP! 加美」 序文
「DEEP! 加美」 その1

大阪市立加美小学校というところで、次のようなプリントが学校から配布されているのだ。

______________________________________
2007年1月17日
保護者の皆様へ

大阪市立加美小学校
民族学級保護者会「親の集い」
代表 ◯ ◯◯(個人名なので伏せる)

キムチ販売のお知らせ

 アンニョンハセヨ。まだまだ寒い日が続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。
 平素は民族学級に対してご理解とご支援をいただきありがとうございます。
 さて、今年も下記のとおり恒例の保護者手作りの「キムチ販売」を行いますので、ご協力いただきますようご案内申し上げます。



1、販売日 2007年1月27日(土)
2、販売時間 午前10時45分〜 (2時間目終了後から)
売切れ次第、販売終了
3、販売場所 正門玄関
4、販売物品 カクテキ(大根キムチ)……500円
白菜キムチ………500円
______________________________________

 というのが配布されたプリントの全文である。「真悟の会・堺」の著者の方は「東京モンが知ったら腰 抜かすぞ。」と書かれているが、東京モンでなくても腰を抜かしてしまった。授業がある日に学校でキムチを売る。しかも私立学校ではなくて、公立学校である。

 この文書はその公立学校に通う日本人の生徒の、もちろん日本人の親に学校側から配られた正式な文書だが、そこに「在日朝鮮人の保護者がキムチをつくって学校で売るから買え」と書いているのである。(商品の販売場所、販売日時と値段を記した上に、『ご協力いただきますよう』と書けば、これは立派に購入要求である。)

 しかも入学式で日本人の生徒にも朝鮮語を教えるという話を教師がしている(もちろん在日と思われる)。これは私立学校ならまだしも、公立であるから指導要領からの逸脱行為になるのではないか。しかも、こうした在日の教職員が学内で校長よりも隠然たる権力を持っているというのだからスゴい話だ。在日に学校が乗っ取られているかのようだ。

 埼玉の方には中古車販売業を営むパキスタン人が多く在住しており、そうした方々の子弟が公立の学校に通学しているそうだが、彼等におもねって学校のグラウンドを中古車販売会場に開放したり、日本人生徒の保護者に「彼等から中古車を買え」と学校が要請したり、給食から豚肉を全部取り除いたり、授業中のメッカ遥拝を認めたりすれば大問題になる。

 しかし、ことに在日朝鮮人ならば日本人はどこまでも遠慮して、おもねって口を閉ざしてしまう。むろん、自分は民族主義者として民族教育には賛成である。在日にはそれなりのアイデンティティがあり、自らの民族を尊重する姿勢は大切だと思うが、それを公教育の場に持ち込み、日本人を巻き込むのに自分は納得しかねるのである。

 ちなみに、この大阪市立加美小学校は創価学会の広告塔をつとめる久本雅美が卒業した学校でもあるそうだ。大阪には加美小学校以外にも、こうした在日朝鮮人を優遇するような公立学校がいくつかあるらしい。民団のホームページを見る限りでは、民団側から学校になんらかの働きかけがあったでろうことがうかがわれる。こうしたオカシナ関係は一刻も早く清算していただきたいものだ。

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by shikisima594 | 2007-01-26 23:01 | 随想・雑記
「筑紫都知事」にNO!
f0018981_2040236.jpg 宮崎知事選で既成政党に属さない、そのまんま東氏が当選し、大きな注目をあびたが、今年の四月に行われる東京都知事選挙にあたって、民主党が「NEWS23」の筑紫哲也に出馬を打診したという話がまことしやかにささやかれている。

 沈没しかかった船が立ち直るCMを盛んにやっている民主党だが、ついに人手不足のあまり見境がなくなり、社会党体質への先祖帰りを強めているのだろうか。筑紫哲也がどんな人物であるかは、毎晩ニュースを見ていると否が応でも眼に入って来て、ご存知の方も多いはずだ。

 日本社会や自衛隊への露骨な嫌悪と、中国・朝鮮半島、在日朝鮮人、オキナワ(沖縄ではない、彼にとってはあくまでもオキナワ)への異常なまでの偏愛ぶりは広く知られている。詳しくは写真の本『筑紫哲也 「妄言」の研究』(別冊宝島)をご参照いただきたい。もちろん、そんな筑紫は朝日新聞の出身で、政治部や外報部など、朝日新聞の中でも最も先鋭的な偏向が指摘される部署である。

 その筑紫の古巣である朝日新聞が今月、民主党の菅直人に都知事選に出馬せよと前代未聞の記事を掲載した。不偏不党・公正中立を一応のタテマエとする新聞にあるまじき行為だが、菅直人は出馬を固辞したようで、かわりに自分と関係の深い筑紫に出馬への打診をしたそうである。

 もし、筑紫出馬となれば、民主党が全力で支援するであろうし、朝日新聞も報道機関ではなくもはや“政治結社”と化して、狂気のキャンペーンを張るであろうことが予想される。民主党は保守系議員もいるような素振りはみせているが、実体は労働組合の連合や、糾弾と強要で利権をむさぼってきた極左同和団体の部落解放同盟に頭があがらないどころか、議員の一部には朝鮮総連とも関係が深い者がいるのが実体である。

 そして、こうした団体は、明確に自分達の側に立つ政治家があまり現れず、票だけもらっていく民主党に少なからぬ不満を持っていた中であるから、自分達と志しを同じくする筑紫出馬となれば、これも全力で応援に回るはずだ。

 では、もし万が一、想像するだけで憂鬱だが、“筑紫都政”が誕生した場合、どのような影響があるかのだろうか。一番ふさわしいモデルケースは、やはり昭和四十二年から十二年間にわたって都知事をやり、イデオロギー的にも近い、美濃部亮吉東京都知事の例であろう。いわゆる「美濃部都政」である。

 その美濃部都政は左翼思想そのものを教条的に導入した都政で、都職員の人件費を「労働者の賃金」として一切下げる事が出来ずに、これを聖域化し、人件費が膨大にかさみ、汚職が頻発して、すぐに末期のソビエトのように財政危機におちいってしまった。「職員笑って市民泣く」とはよく云ったものだが、それを地で行ったわけだ。都職員労働組合などを支持基盤とする民主党東京都総支部連合会からの支援を受けるであろう筑紫ならば、美濃部都政への逆コースをたどる可能性が高い。

 さらに指摘しなければならないのは、現在、徐々にではあるが、朝鮮総連や在日朝鮮人の不当な特権は取りやめられる喜ばしい傾向にある。しかし、この特権を在日朝鮮人にくれてやった売国奴が美濃部亮吉であった。北朝鮮の関連施設の固定資産税を免税、朝鮮大学校の認可などである。

 民主党はもとより、筑紫哲也本人も同様に北朝鮮系人脈との関わりが指摘されており、こちらでも売国的逆走の危険性が拭いきれない。それどころか、筑紫哲也は、去年の十一月に悠仁親王殿下を猿のぬいぐるみに見立て、これを投げ捨てるという許し難い茶番劇を主催した雑誌『週刊金曜日』の編集委員に名を連ねている。

 ちなみにこの週刊金曜日は現在の内親王殿下ご誕生の折にも、それを「グロテスクな茶番劇」という誹謗中傷をなしたことからもわかるように、日本人の感性まったく持ち合わせていない雑誌である。このような筑紫哲也を、日本の首都である東京都の知事にする事は東京都民の恥であるばかりか、日本に重大な禍根をもたらすものであり、断じて認める事はできない。

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by shikisima594 | 2007-01-25 21:33 | 随想・雑記
文化国粋主義の独立宣言
 これまで、私は民族主義的な思想を説いてきた。しかし、それは明らかに、他の民族主義的な言説とは異質な考えであった。

 これまでさまざまに表現してきた私の考えも、突き詰めれば次のように換言することが出来る。すなわち、国風美術・国風倫理と普遍技術の相互発展である。啓けない神話に遡ろうと、技術文明華やかな未来にいたろうと、民族は正統たる美術と宗教で貫かれなければならないというのが、私の考え方である。
 そしてこの内、国風文化のみによる文化体制に関しては、これまでほとんど主張されることがなかった。だから、私は思想あるものに対しては、日本的文化の発展についてさまざまな考えを説いてきた。

 当初、理性的にはあまり期待はなかったが、それでも私はいわゆる「右派」或いは「民族主義者」「国粋主義者」と呼ばれる方々に対して、感情的には若干の思い入れがあった。
 彼らは日本を憂う。だから、民族文化がますます発展しなければならないという話が出来るはずだと。だがこの期待は、やはり外れたといわなければならない。私は遂に、満足できるまで話が出来る人物を見つけることは出来なかった。これからもそうであるかもしれない。

 私がいくら国粋文化の普通化を説いてみたところで、芳しい反応が得られることはめったにない。それは当然のことである。一般に説いてみたところで、何が起こるわけでもないことは承知だ。だがしたがって、少しでも芸術に関わる方なら、少しは啓発されてくれるようであった。
 そして問題は、いわゆる民族系の思想を持つ者に、私が与える視点に関しては、せいぜい側面的に同調するにとどまるものが多いことである。私の説く国粋主義は、芸術肌の方とは話が合うが、いわゆる「民族主義者」にはなんら啓発を与えるところがなかったのである。

 だいたいの「右派」という人々は、民族主義といっても、民族に深く関わる国家体制或いは社会規範の研究と維持発展につとめてきたのだった。彼らは国体派である。西洋風に言えば、王党派である。しかるに、これ自体は全然問題でないが、彼らは並行して民衆の文化、或いは既になくなった文化には、結局いささかの関心も示さない。

 しかれば、この件に関して、彼らには全然期待できない。恐れ多くも、皇族の方々でさえ保護を主張なさらない民族文化がある。然るにそれを守ろうと考える者は、ほとんどいないに等しい。確かにこれも、理性的には十分わかりきっていたことであった。

 しかして、現状を見よ。和風な文化は既に、普通でなくなったのだ。今日、国土に広がる都市部では、日本家屋が圧倒的に少数となったのはご存知のとおりである。ファッションとしての和服など、化石としてしかのこっていない。そんな時代があったと学者が回顧するのみである。いわゆる「民族主義」者がこれをなんとも思わないのであれば、化石さえこの世からなくなるときが来るだろう。

 だから私は、既存の国家国体主義的民族主義に対して、文化国粋的な民族主義の存在を宣言しよう。文化国粋主義は、国粋文化の発展につとめ、将来、我々オオヤシマ民族が関わる全ての文化を純オオヤシマ風にすることを目標とする。
 私はどうやらたった一人である。しかしながら、私には主張がある。これを主張したいが上には、私はどうしても、私の主張がそれまでの主張とは全然異なっていたのだということをはっきりさせなければならない。

 これからも私は、こうして文化国粋主義の理想を求めるべく、皆様に呼びかける次第である。
 芸術も民族を成す柱の一つである。そうと思う方には、是非ご協力いただきたい。

 ムネカミ

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by shikisima594 | 2007-01-25 00:00 | 随想・雑記
人と獣の境界
 カンボジア北東部のラタナキリ州で19年前に行方不明になっていた少女が18日までに無事に保護された。少女は現在27歳。言葉はほとんど話せず、与えられた衣服を脱いでしまうなど半分野生化した様子だという。(中略)父親は娘の様子を「かがんで歩く姿勢がサルのように変わっており、骨と皮しかない。目はトラのように赤い」と話している。(産経新聞一月十九日付け)


 人間の子どもが幼い時に山に迷い込んだり、親に捨てられて動物に育てられるなどして野生化した例は他にもいくつかある。インドの狼少女アマラとカマラの事例は特に有名だ。こうした事例は教育学や児童心理学などの分野で深い関心を持って研究されている。

 さて、ではこのような事例は一体何を示しているのか。それは「人間は生まれながらにして人間である」という命題は、生まれた時点において人間とは霊長類ヒト科の生き物に過ぎないという事である。

 つまり、我々が認識する所の人間とは、生後の教育によってなるものであり、放置しておいても、人間になるわけではない。場合によれば、感情を喪失した人形のようなものにも、理性のない獣にもなるわけである。

 昨日、このブログでも紹介した吉田松陰先生は「士規七則」のなかで、「凡そ生れて人たらば、宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし。」と云っているのも、実にこのところを説いたものである。 そして、教育とは全く無に等しい赤ん坊を、属する共同体の構成員に近づけていく作業である。

 教育といった場合、施す側の視点であるが、その教育を受ける子供から見た場合、子供が無意識になしているのは社会学でいうところの準拠である。すなわち周囲の人間に自分を近づけて行くわけだ。話している言葉、習慣、感情の表現にいたるまで周囲の人間をもとにして成長して行く。

 つまり子供は、社会を背景にした親を鑑として成長するわけだ。故に準拠する対象である親やそれを取り巻く社会が存在しなければ、子供はカンボジアで発見された女性や、かつてインドで見つかったカマラのようにならざるを得ない。

 我々が広く認識する所の人間には、親に準拠することによってなり得るが、しかしその国の国民になるためには、その国の歴史に準拠し、その中に自己を一体化させることによってしかなり得ない。つまり、祖国の歴史の流れがあって自分が存在しているという認識のもと、その歴史上のいづれかの人物に準拠しようという意思を持たなければならないはずだ。

 ところが、日教組や全教、進歩的と称する学者たちは、我々から準拠すべき歴史を剥ぎ取ってしまった。日本人の原典ともいうべき『古事記』、『日本書紀』とそこに書かれた神話は消し去られ、かわりに支那の『魏志倭人伝』を教え、和気清麻呂公、大楠公、先に挙げた吉田松陰先生といった尊敬すべき忠臣を消し去り、かわりに伊藤博文を射殺した朝鮮人の安重根や、大逆事件の幸徳秋水など、準拠しようのない連中を写真付きで教えている。

 親とはぐれたばかりに獣のようになってしまったカンボジアの女性がいる。そして、祖国の歴史とはぐれてしまったばかりに眼を覆うばかりの今の日本がある。上野の山から東京の街を見渡しておられる大西郷は「聖賢に成らんと欲する志無く、故人の事跡を見、とても企て及ばぬと云う様なる心ならば、戦に臨みて逃がるより猶ほ卑怯なり。」と喝破している。

 まず祖先の歴史を知ろう。そしてその中から燦然と輝く先人を見出し、その人物のようになろうと努力して行こう。その姿勢こそが人と獣の違いであり、今の日本に求められていることではあるまいか。

タカユキ

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by shikisima594 | 2007-01-23 22:38 | 随想・雑記
『吉田松陰』
f0018981_19484325.jpgf0018981_19485943.jpg 歴史小説、とくに江戸時代のものは意外と読んでこなかった。昼下がりにテレビでやっている時代劇のように、成り行きがベタで冗長で、構成も老人趣味だという偏見があったからだ。


 ところが、ふとしたきっかけで山岡荘八氏の『吉田松陰』を読む機会があった。山岡氏の本は、いつも本屋や古本屋の歴史小説コーナーで広く場所をとって置かれているので、見かけていたが、長編が多いためことさら敬遠していた。

 しかし、ものは試しと、尊敬する吉田松陰を扱った本書を手にした。全二巻だったから、とりあえず一巻だけ買って読んでみたが、すぐに二巻を買う事になった。面白い。あの幕末の激動の潮流の中にあって、国を憂い、大君を尊び、東奔西走した吉田松陰の燃えるような熱情がこれでもかと伝わって来る。

 吉田松陰を題材にした本は多い。研究論文も多数あるし、自分もいくつか眼を通して来た。その多くが万人受けを狙いすぎるあまり、吉田松陰の本質がボヤけてしまったり、要約するあまりまるで凡人に毛が生えた程度の人物みたいになってしまっている。

 吉田松陰の機知に富んで純粋、尊皇愛国の至誠と、「二十一回猛士」の号にあらわされる激烈な思いは学術論文などではとても表現し切れるはずもない。吉田松陰を書きたがる人間は大勢いるだろうが、吉田松陰は書き手を選ぶのだ。

 そして、この本の著者である山岡荘八氏こそ、吉田松陰を描くにふさわしい作家であったと思う。他に吉田松陰を描いた人と山岡氏との決定的な差は、膨大な資料を調べた上で丹念に描いて行く山岡氏の手法はもちろんだが、それ以上に山岡氏が吉田松陰の魂に深く共鳴していることだ。

 吉田松陰の生き様に自ら感動したであろう著者が、その感動を読む者に見事に伝えている。山岡氏は大東亜戦争中、従軍作家として潜水艦にも乗り、特攻を控えた隊員に取材をしたりして、祖国の為に殉じて行く青年たちと交わって来たが、そうした経験があってこそ、幕末に維新の大義に殉じた吉田松陰を明快に理解し、鮮やかに描けたのだろう。

 章中には何カ所も山岡氏自身による解説がくわえられているが、その中でも特筆すべきは、多くの学者ですら明確な解説を出し得なかった吉田松陰の天皇観、国体観、生命観などが山岡氏自身の言葉で滔々と書かれている。しかも、その内容の透徹した事に驚いてしまった。

 現代においては、吉田松陰とは山岡荘八氏の筆によって初めて理解できるようになったといっても過言ではあるまい。とにかく、読み終わった後は猛烈に大学の隣にある松陰神社に参拝したくなった本だ。

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by shikisima594 | 2007-01-22 20:41 | 読書録