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皇国史観をする、ということ
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 野球や空手、華道に剣道と、大学のサークルは諸々あるが、例えば野球部の人間に「野球部ってなにをするんですか?」と聞く人はいないだろう。もし聞かれても野球部員は野球のルールと、その面白さを簡単に説明できる。それは空手も華道も剣道も、みな同じだろう。

 しかし、こと皇国史観研究会となったら、「皇国史観研究会って何をしてるんですか?」と聞く人が多いし、そう聞かれて一言で明確に答えられる皇国史観研究会員も少ない。かく言う自分だって心もとないものがある。

 勉強会のテーマも、歴史、古典、時局問題、経済、政治、外交、マスコミ、思想哲学、宗教、戦争、国体、伝統文化、芸術と多岐に渡るし、活動も史跡めぐり、登山、海水浴、花見、講演会、花火、バーベキュー、北朝鮮による拉致被害者救出活動、戦没者への慰霊と遺骨収集、清掃奉仕と非常に幅広い。

 「文化系」「スポーツ系」「武道系」という分類からすれば、「文化系」になるし、その中でも、歴史学研究会といったサークルに近い分類になるだろう。ではその歴史学研究会などと、皇国史観研究会ではどこが違うのか。

 歴史を研究する点では共通しているが、それぞれの違いは、歴史学研究会が「学」であるのに対して、皇国史観研究会は「観」であるということだ。それは歴史に対する態度である。こういうと、「歴史学研究とは科学的・実証的に歴史を研究するのに対して、皇国史観とは非科学的で迷信的な態度で歴史にのぞむことだ」と歪んだ見方をする人がいるが、それは間違いである。

 歴史学研究会といった集団は、あくまでも歴史に対して、それを俯瞰して傍観することに終止するが、皇国史観研究会とは歴史を継承し、それを実践する集団である。ひとくちに「日本史を研究する」という。日本史の研究は日本人はもとより、中国人だろうがアメリカ人だろうが、誰にだって出来る。

 しかし、日本の歴史を継承する事は日本人にしか出来ない。同一民族・同一言語・同一文化を共有した二千年以上の歴史と伝統を継承し、それを実践する事は我々にしか出来ないことなのである。歴史学研究が歴史の外に立つのに対し、皇国史観の実践は歴史の中に立つのである。

 例えば、吉田松陰という日本のために殉じた立派な教育者がいた。外国人であれ、吉田松陰の生き様に感動する人は多いと言う。だが、彼らが外国人である以上、吉田松陰の「日本のために尽せ」という教えと遺訓を守って生きる事は出来ない。

 吉田松陰にせよ、楠木正成にせよ、日本武尊、高杉晋作、和気清麻呂、西郷隆盛、坂本龍馬など、綺羅星のように輝く素晴らしい先人達が日本の歴史には大勢いる。そうした先人達の偉業と遺訓を歴史から汲み取り、それに感動する心を持って、先人達の道統に自らも連なろうとするところに歴史の継承は生まれ、歴史の連続性も確立するのである。

 こういうと難しく感じるかもしれないが、実際の活動は上にあげたようなものや、このブログで紹介したようなものである。その中に、こういった精神をふまえている事が、重大な点であり、先人達が築いて来た道統と精神を日々実践していく事こそが、皇国史観をする、ということなのではないかと思う。

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by shikisima594 | 2007-03-31 23:44 | 随想・雑記
三島由紀夫『若きサムライのために』
f0018981_22515856.jpg 僕は国士舘大学に在籍して学業を続けている。大学名は読んで字の如く、「国の士(サムライ)の舘」となり、国家にとって柱や礎となるような人物を育む事を旨とした大学である。

 大学名に「士(サムライ)」と関した教育機関は少ないし、ましてやそのサムライが国家にとってのサムライであると規定した大学は我が国士舘大学だけであろう。僕はこの事を大変誇りにしているし、そういった志と理念を持った教育機関で学べる事を嬉しく思っている。

 最近、大学の教授から聞いた話だが、この国士舘大学という名前は現在では日本人学生よりも、中国や韓国からの留学生の方で評判が高いらしい、彼らの国では、国士とはまさに天下第一等の祖国のための人物といった意味で、祖国に帰ってから学歴が「国士舘」となっていると大変に胸が張れるという。

 そういった話を聞くと、国家のための人物としての「士」を尊ぶ中国や韓国の習慣と信念が羨ましくもあるし、まだまだ「国士」という名前に誇りと自信を持ちきれない日本人学生について残念でもある。「士」とは本来、男性を意味するところであるが、さらに意義を深めて「侠」や「漢」といったものよりも思想的・道統的な意味合いを加味し、サムライという概念をつくり出したのは、実に日本の精神風土に他ならない。

 ではサムライとは何か、武士道とは何か。
 そういった時に我々はそれに対する明確な答えを出し得るだろうか。山本常朝の『葉隠』を持って来る、新渡戸稲造の『武士道』を挙げる、藤原正彦の『国家の品格』を説くなど、議論百出するだろう。

 それらは一面において武士道とサムライの片鱗を描き出し、記しているかもしれないが、全体像を描いているとは云い得ないのではないか。マルクス主義のように一時代の特定の人物がつくった思想ならば数冊の本を通読すれば概要を知る事は出来る。

 しかし武士道とサムライとは、前述の通り日本の精神風土が長い主に封建生社会を中心として育んだ精神と生き様、価値感であり、それは数冊の本において全体が理解し得る性質のものでは決して無い。

 そうした前提の上で、サムライとは何かを考える手がかりとして今回は三島由紀夫氏の『若きサムライのために』を挙げたい。「昭和のサムライ」と呼ばれた三島由紀夫氏がサムライの血を受け継いだ日本の青年たちにしたためたのが、本書である。

 本書の精髄は前半における「若きサムライのための精神講話」にしっかりと込められている。この中で自分が最も好きな話は、「信義について」の章である。以下に一部を紹介する。

「一旦約束を結んだ相手は、それが総理大臣であろうと、乞食であろうと、約束に軽重があるべきではない。それはこちら側の信義の問題だからだ。
 上田秋成の『菊花の約』という小説は、非常に信じあった友人が、長年の約束を守るために、どうしても約束の場所、約束の時間に行くために、人間の肉体ではもう間にあわなくなって自殺をして、魂でもって友人のところにあらわれるという人間の信義の美しさを描いた物語である。その約束自体は、単なる友情と信義の問題であって、それによってどちらが一文も得をするわけではない。その一文も得をするわけでもないのに命をかけるということは、ばからしいようであるが、約束の本質は、私は契約社会の近代精神の中にではなく、人間の信義の中にあるというのが根本的な考えである。一人一人の人生にとって、時間というものは二度と繰り返せぬものである。」

 三島氏にしてはじめてこの例えあり、と唸らせられてしまう。人間の信義こそが、明文化された契約や、金銭取引、利害関係を超越して最も重い所以を端的に説き著している。この信義に殉ずる者こそまさにサムライである。

 そして信義に殉ずるためには、至誠の境地にまで高められた誠意が必要不可欠である。上記文中では、ある男は友人との信義を果たすために自決している。これは極めて文学的な表現かもしれないが、信義の重さと、サムライのサムライたる所以は実にこの誠意の透徹した境地に他なるまい。

 新撰組が「誠」を旗印にし、国士舘大学が徳目として第一に誠意をあげているのも、実にサムライの根本的資質に対する追究があって事であろう。しかしどうだろう、昨今は携帯電話の普及により、「あー、もしもし、ごめん。今日さぁ、ちょっと急に用事はいっちゃって行けなくなったわ」で信義が宙を舞い、サムライは消えつつあるではないか。

 サムライとは何か、人間の美しい生き様とは何かを考えさせられ、自らにとっても自警の書となるのが、この『若きサムライのために』ではなかろうか。

文責:タカユキ

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by shikisima594 | 2007-03-30 23:42 | 読書録
結局水素エネルギーは使えない?
 以前、水素エンジン自動車(液体水素又は圧縮した水素)あるいは水素燃料電池自動車が次世代の自動車として話題になっていた。これらの水素を直接燃料にしたり、発電に用いたりしてエネルギーを発生させる車は二酸化炭素の排出量が少なく、環境保護の面で見れば大変魅力的に思えてしまう。

 しかし、去年の11月頃に開かれた名古屋大学の交通・都市国際研究センター設立記念シンポジウムではこれらのエンジンには将来性が薄いとの結論が下されたという。
 また、JHFC(Japan Hydrogen and Fuel Cell Demonstration Project=水素・燃料電池実証プロジェクト)でも同様の結論が出されているそうだ。

 理由は、燃料とする水素をどうやって製造・保管するのかという事と、その水素をどうやって運搬するのかという事、それに水素エネルギーの効率性の問題だ。

 例えば水素の製造に電気分解をするのなら、その電力を電気自動車に直接与えた方が効率的にいいだろうし、コークス炉や苛性ソーダの製造過程から水素を取る方法もあるそうだが、果たしてコストが見合うのだろうか?

 そして純粋な水素は中学の理科で習ったようにすぐに引火して爆発するように燃える。そんな危険な気体(液体にしても、気化しやすいので管理が難しい)をどのような方法で保管するのか?

 後者に関しては当然、都市ガスのような保管・運搬手段が考えられるだろうが、それならば最初からそれらのガスを燃料にすればいいのだし、燃料としては水素よりも効果的だろう。

 なぜなら、ホンダの四人乗りの水素燃料電池自動車が350気圧の高圧ボンベに入った水素を用いて570kmほど走るのだが、その高圧ボンベの容量が171リットルもあるのだそうだ。つまりリッター3kmほどである。

 今時のガソリンで走る自家用車に、リッター約3kmの車はなかなか見掛けるものではないし、LPGで走るバスはリッター約1.8kmでディーゼルのバスなら約2.8kmである。しかも、LPGは1リットルが約58円で軽油は約80円で1kmあたりの費用は約32円となり、それ程大差はない。

 だが、バスを水素燃料電池で走せるとすると、どれだけの燃料タンクが必要なのだろうか?
四人乗りでリッター約3kmなのだから途方もない量の水素が必要だろうし、その水素を製造するのにどれだけの電気代、またはどれだけのコークスや苛性ソーダが必要になる事だろうか・・・。

 自動車の動力としての他の手段には電気自動車から高圧空気を直接動力にする自動車、炭化水素やDME(ジメチルエーテル)等の液体燃料を用いた新式燃料電池、バイオエタノールが考えられているが、どれにも問題点(電気自動車なら発電方法だし、DMEなら安全性、バイオエタノールなら生産する農地と食料問題)があるので実現は難しいのだそうだ。

 液体酸素などを用いたAIP(非大気依存推進・Air Independent Propulsion)も考えられるが、スターリング機関に代表されるこれらの装置は潜水艦になら搭載できても、乗用車には余りにも大きすぎる。

 現在、この分野では他の国々の開発状況も似たような状況であるという(BMWの液体水素エンジン自動車など)。
今こそ日本の科学技術で世界に誇る次世代エネルギーを開発しようじゃないか!
 今回は以下のサイトを参考にさせて頂きました。
     市民のための環境学ガイド 時事編

文責 洗国

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by shikisima594 | 2007-03-29 23:59 | 随想・雑記
日本人の選択を
 日本と国において賢くなければならない人たちが一番の馬鹿扱いにされる。
 政治家は汚職の塊のように吹聴され、教師は変態扱いされ、公務員はさも無能な集団のようにいわれる。

 普通の国家なら逆の扱い方がされるのが当然であり、普通である。

 政治家は国内問題と外交問題を交互に行うため、強い判断力と実行力、それに打算ができる明晰な頭脳が当然必須となるし。教師は人を教える立場上、基礎的な学力と指導者としての力が重要になる。また、公務員は公務員で情報処理能力が高くなければ使える人間だとは言われはしないだろう。

 このような重要な立場にいる人間がひどくバカ者扱いされているのは異常であると思う。

 たとえだ、その政治家が汚職を行っていようともそれが公共の福祉の拡大や国家の権益と誇りを守るために行うのであれば、それは我々が否定することはできないだろう。また、どんなに教師が「私」での中で特殊な性癖を所持していたとしても、それを外に一歩出た瞬間から指導者としての威厳を持っている人間であるならば、その悪性は大きな善性によってかき消されるのではないかと自分は考える。

 小悪をもって大義を為す、ということである。

 人間というものはやっかいな存在で自分の善性を応援しながら、悪性に鞭を叩きながら動かなければどちらかに偏りすぎてしまう。善性だけの人間は単なる愚昧であり、悪性だけの人間は打算だけでいきる卑怯者となってしまう。その両面をうまく扱いながら動かなければならない。

 故に人は悪性をうまく刺激しながらも、善性を扱いきれなければならない。最初から二律背反した存在なのである。

 根幹から悪性だけしか所持していないもの、善性だけしか所持していないものなんぞ存在しないのである。

 といってもだ、この現代の世の中は一般的に「本音社会化」といわれることがある。だが、本音社会化といわれても、悪性だけで動き続けることはまず不可能である。

 自分はこの現代を一言に表すのであれば「総根無し草化」といったほうがいいかもしれない。
 根無し草は風に吹かれれば、その風に流された方向に飛ばされ続け、養分となる水分は細かい毛で空気中の水分を摂取して自分の中で蓄えていく。正に現代人を当てはめるにはこれぞといった言葉は存在しないのではないかと考える。

 しかも、その根無し草はたちが悪いことに己が存在というものを全く自立した形で所持していないのである。世の中では「自分不在」なぞというわけの分からない言葉が専横し、「自分探し」なぞというたわごとが叫ばれている中で自分というものは何ぞや?という下らないことばかりが言われている。

 自分というものは世の中に出て、世の中の型にはまってから叫べる言葉である!
 型にはまることができないのに自分とは?なんぞ考えても全くの意味がない。むしろ、型にはまれた人間は型から自分の何かが漏れる点こそが自分だと認知できるのではないかと考える。

 その第一の型こそが「自分は日本人である!」という誇りであり、根底でもある。その根底が出来ていない人間が自分を探せるわけがない!そこから生まれる発想こそが、日本人として国家に何ができるかということである。

 ただ単に税金とかを納めることではなく、公共の福祉の一員として自分は動けるのかどうだろうか?という単純な疑問である。

 勿論、我々はその疑問を完全に答えることは出来ない。答えを小出しし続けながら試行錯誤を繰り返し続けるだけである。でも、何かしらの形での大きな何かが見つかるのではないかと我々は考え、また信じているのである。

 日本人として生まれ、日本人と死んでいくのであれば、クニのためにどれが最良の選択であるかは非常に単純な問題ではないかと自分は考える。

文責:死の先

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by shikisima594 | 2007-03-28 20:32 | 随想・雑記
春の梢に咲いて会おう
f0018981_1640299.jpg 昨日、用事があって出かけて、その帰りに近かったので靖国神社に参拝に訪れると、早くも桜がいくつか咲いていた。花見客も大勢訪れ、露店も所狭しと出ていた。

 拝殿前には、いつも以上に家族連れや僕と同じぐらいの学生たちの参拝者が絶える間無く、列をなし、英霊に手を合わせておいでだった。八月十五日の敗戦無念日(終戦記念日)にばかり靖国神社への総理大臣参拝の有無が取り沙汰されたりするが、これもおかしな話だ。

 境内で靖国神社への総理大臣参拝などを訴えられる英霊にこたえる会の、大東亜戦争を戦われたおじいさんに聞くと、相当昔、昭和三十年代ぐらいの八月十五日に靖国神社にいってみると、がらんとしていたという。

 八月十五日に急に人が来るようになったのは、中曽根総理が鳴り物入りで八月十五日に靖国参拝してからだそうで、小泉総理就任以来、八月十五日参拝が激増したという。確かに、去年の八月十五日は過去最高の25万人だったという。マスメディアの力はスゴいものだ。

 まるで、八月十五日という日に参拝するのが大きな争点であるかのように取り沙汰されてしまったが、本来、靖国神社の英霊は大東亜戦争の戦没者のみではないし、なにも「八月十五日に来てくれ」と皆が遺したわけでもない。マスメディアと政治的駆け引きの産物が靖国神社と八月十五日という日付を、かくも近接事項のように結びつけてしまったのではないか。

 先日、テレビを見ていると、ニュース番組で、桜の開花情報をやっており、東京の開花基準になる桜が靖国神社の桜だから、いつも八月になると総理大臣参拝を境内から痛切な面持ちで伝えるマスコミも、ことに桜となると楽しげな顔をして靖国神社から中継をやっていた。滑稽でもあるが、これがマスコミの本質だろう。

 さて、英霊達の遺書を拝すると、そこに綴られている大きなキーワードは、桜である。
「靖国神社の桜の咲くころに、会いに来て下さい」
 妻、恋人、母、子供たちに、そのように切々と綴っている。靖国神社の境内には多くの桜が植えられており、その桜の花一枚一枚に彼らは自らの思いを托して行ったのだろう。

 大東亜戦争中に広く歌われた軍歌の中で、とりわけ有名な『同期の桜』の最後は、「花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう」と歌われている。昨日は雲一つない快晴で、青空のもと桜がよく映えて、力強くも美しく風に靡いていた。それを見ていると、なんとも言葉にならない。

 靖国神社の遊就館には英霊たちのお写真が展示されている。そうした英霊たちお一方ずつが桜のように、朗らかに、明るく、彼らはこの国を見守ってくれているのだ、と勝手に思ってしまった。その思いを裏切らないように、微力ながらも頑張って行きたいと思う。

 これから間もなく、靖国神社の桜も満開を迎えることでしょう。みなさんも是非、靖国神社の桜を見に行かれてはいかがでしょうか。

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by shikisima594 | 2007-03-27 17:05 | 随想・雑記
文化国粋主義という考え方 〇一二
 我々は、文化国粋主義の理想について、次のように考える。

 〇八、社会のありとあらゆる事象を族粋化することを目的にするため、

 すなわち、私は民族の構成員あるいは事物全体を余すところなく文化国粋的立場にせしむることを望んでいる。大隈から陸奥まで、大君から物の怪まで、学術書からエロ本まで、言語から動作まで。最終的にはそのように、我々民族の社会にありうるものは、基本的に全てがわが民族の民族態を表現できなければならない。

 これは何しろ、社会の全体を回帰の対象にしようとする点で、既存の伝統主義的な立場とは全く違っている。既存の活動は、その目的にしては天皇と国体の死守であり、社会体制と一部の信仰とそれに近い文化に限られていたと思われる。だが、これを完璧にする意図をもってさえ、文化全体の民族主義はなお重要であるとみなされるべきである。我々は宗教を侵され、服装を異国風に改め、町を作り変え、この妥協を許すというのであれば、いずれは言語、やがては帝政も危うくなるのも時間の問題であるように感じられるからである。

 天皇を最後の牙城とした三島氏の文化防衛論は、その名の通り専守防衛の思想に過ぎない。我々が想定するような、感覚的で民族的な文化は流動を常態とするから、文化の保守は再生産であり続けなければならないのだが、その裾野が全部取り払われてしまったとき、果たして最後の牙城は強大な敵の目前に立ち向かわなければならなくなるのである。いったい、そこに至るまで何故ほうっておく必要があるのだろうか。

 また、私は社会秩序一般に関してそのような了解を得たいのではなくて、民族が参加するもの全てを有機的に民族的にしたいと欲している。学校教育で許されて、反学校組織的集団の間では許されないというのでは、善悪の体系を手中に収めたとはいえない。我々はあくまで全体を望む。

 社会全体をこのように変えることで、そうでないことを異端とできれば、我々の志向は社会全体の共通規範となるだろう。われわれは、全体を普通足らしめるのである。

 ムネカミ

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by shikisima594 | 2007-03-26 23:59
思想の根幹
 古今東西、思考や思想には何かしらの根幹となる何かがなければならない。
 社会主義者であるならば「よい社会」というものを作り上げるためにはどうすればよいか?
 資本主義であるならば、いかにして金銭という流動性をより効率的に動かしていけばよいのだろうか?など、なにかしら根幹となる考え方がある。

 また、その根幹となる考え方から導きだされた行動を行うことで世の中というものはどんどん流動していく。
 流動していくことでその考え方から、また新たに考え方が生まれ大きく拡大していく。
 思想や思考は時という大きな大河に流されながら大きくそして、また新たな何かを生み続けるのである。

 しかし、その基本的な行動から閉ざされた人間達がいる、それが「サヨク」といわれる集団である。
 彼らは確かに一時期、ものすごい行動力とその意志を所持し、動きそして考え続けてきた。
 彼らの根幹も同じように「平等で最大幸福を作り上げる」というユートピア論的な世界を作り上げようと動いてきた。

 だが、今ではその末裔達は何をしている?
 やれ、国旗をあげるなだの、国歌を歌うなだの、あなた方が目指してきたものは幼稚な「反コッカ」にすぎなかったのだろうか?
 ただ単に国家に居座ることしか出来ないのに、何も提言することもできないのにただアンチという立場にうぬぼれているだけが、「左翼」としての行為であったのだろうか?自分は全くそうだとは思えない。

 自分は「サヨク」に対しては否定的ではあるが、「左翼」そのものには何も否定的な価値観はあまり所持してはいない。
 また、彼らも我々とは違う形での「よい社会」の構造を作り上げてきたのであるから自分と似た根幹を持つ存在であると思う。
 「左翼」は根幹があるが、「サヨク」には根幹がないのである。また、作り上げてきたポリシーもなく、一瞬の情報に右往左往するだけなのである。

 世の中、ただ今一瞬に右往左往してもよいのは子供と鈍間だけである。
 一瞬一瞬が新しく切り替わり、ほんの一瞬前にあったことが太古化され、どんどん使いふるされていく。
 自分としてはこのような世の中も正直、疑問であるが、実際そのような状況下に世の中が変わってしまった以上それに従うしかない。

 自分達で自浄化することができない集団はすぐに淘汰され消えていく。
 歴史的にあたりまえのことである、それは我々にも言えることである。我々のような考え方が当たり前になったのであるならば、
 自然的消滅は必至である、しかしその自然的消滅は行動と意志によって全うされた結果の上での自然消滅である。

 ただ、忘れられて消えていく自然消滅とは全く違うのである。全ての日本人に埋め込まれて消えていくのである。
 それは非常に光栄であり、嬉しいことではないかと思う。
 自分はそれを未来の一つと見据えながらも、今を考え続け国家の柱の一つの繊維でありたいと考える。

文責:死の先


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by shikisima594 | 2007-03-25 11:26 | 随想・雑記
小中学生のネット事情
 近頃、よく見掛ける携帯電話から作成された提示板やサイト・・・。
私個人もよく利用するのだが、各々のサイトにある管理人プロフィールを覗いてみるとビックリさせられる。

 なんと、そのほとんどが高校生から小学生にかけての十代の子供達なのだ!
別に作るのが悪いわけではないし、むしろ挑戦する事はいい事なのだが、問題はその子供達の保護者や教育者なのだ。

 以前ニュースで「学校裏サイト」が取り上げられた事があった。
「学校裏サイト」はそれぞれの学校の提示板なのだが、学校に通う生徒が特定の生徒の悪口を書き込む場所だ。

 顔が見えないから何を書き込んでも大丈夫という子供心の考えなのだろうが、このようなネットマナーに反するサイトを子供達が作成して利用していたのを、肝心の保護者達はまったく知らず、そのサイトが原因で引きこもる子供もいたという。

 なぜ、保護者は気が付く事ができなかったのか?これからの教育は情報教育がますます重要な教育になるのは間違いないというのに。

 保護者がこのような現状を知ってまず行動するとすれば、子供に対して「ネット禁止!」だとか「携帯没収!」であろうが、ネット喫茶に中学生が出入りする昨今、根本的な解決にはならないだろうし、むしろ欲求を強めるだけに思えてならない。

 子供のネット問題に関して保護者や教育者がすべきなのは、使用するのをやめさせるのではなく、ネットを「正しいマナー」で楽しく利用させる事ではなかろうか?

 提示板に書き込まれた悪口や意味の分からない無茶苦茶な書き込みを目の当たりにして気分の良くなる方は早々いないだろうし、保護者の立場なら子供に見せたくないと考えるのは当然の事だろう。しかし、消そうにも書き込みは次々と現れる。

 それならば、これらの問題を根元から絶やすにはどうすればいいのか?ただ子供にパソコンや携帯電話を触らせないでは、将来子供がパソコンを使えないからという理由で就職できないのでは本末転倒に思える。

 ネットマナーは国の道徳概念にも影響を与えていると私は考えている。ネットが世界中と繋がっている以上は、他の国から見られているという事だ。もしも、あなたが誹謗中傷に溢れかえった提示板が乱立しているサイトを見たとして、そのような書き込みをしている人の国に好印象を感じるだろうか?

 ネットが学生に与えてくれる恩恵は素晴らしいし、現代社会には必要不可欠になりつつある。当然それにつれてリスクも高まる。そしてマナーが悪くなれば、更に個人情報が漏れやすくなったりして危険になる。

 マナーはしっかりと、保護者や教育者が指導すれば、身に付くものであると私はおもっている。今こそ、情報教育を考え直すべきではなかろうか?

文責 洗国

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by shikisima594 | 2007-03-24 15:10 | 随想・雑記
桜を愛でる心
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敷島の大和心を 人問はば 朝日に匂ふ山桜花

 これは江戸時代の国学者本居宣長の詠んだ歌である。この歌の上の句はかつて、皇国史観研究会ブログの看板の言葉になっていたものであるが、この歌について多くの人が「日本人の死生観を歌ったもの」とも「宣長にとっての共同体のあり方を歌に托したもの」とも解釈してきた。

 しかし、当の宣長の門下生や、その周辺にいた人々は、この歌はあくまでも、「桜の花は美しい」という感動を歌ったものであると言っていたという話を聞いた事がある。それは前述の解釈に比較して「桜の花は美しい」と言ったに“過ぎない”と言えるものではない。

 桜の美しさを讃えることは、それ自体で一つの立派な思想であるのだと思うのだ。こう言ってしまうと、本居宣長の歌に込められた思想性の解釈をする前述の視点と同様に聞こえるかもしれないが、桜を愛でる心自体が、すでに一つの哲学であるのかもしれないと言う事だ。

 日本には花見という習慣がある。むろん、外国にも花を愛でる心も、花を観賞する趣向もあるだろうが、人間が一本の花の木の下に集って飲み食いして歌って踊る現象は日本ぐらいと国文学の教授から聞いたことがある。

 なぜだろうか、日本は四季があり、色とりどり様々な花が咲き広がるなかで、日本人はとりわけ桜を愛するのか。それは桜の咲き方、散り方に我々の祖先は自らの人生の縮図をみたのであり、そこに自分を托したのではないか。

 「祇園精舎の鐘の声…」にはじまる平家物語が、仏教的な価値感に彩られ、そこに歌われる「諸行無常」の死生観が長きに渡って日本人の心の中に響き続けて来たのは、すぐ咲いてパッと散り行く桜の花も、自らの人生もさして違わない事の暗喩として受け止めていた素地があってのことかもしれない。

 人生の縮図を見るという事は、自らの死という可能性に向き合うといっては言い過ぎかもしれないが、それと向き合うことは、同時に僅かな現状における生の瞬間を共有する仲間達との時間がより一層愛おしく、尊くも思えるのではないか。

 だからこそ、桜の下でかくも大勢の人間が集って騒ぎ、咲いた桜に表象される生と、必然としての散り行くことへの「あわれ」を共有しているのではないか。言うなれば、花見とは人が桜を見ているのではなく、同様の運命を持つ仲間として、桜と共に酒を酌み交わしていると言えるかもしれない。

 桜の美とは、ただその色合いや形の美ではなく、そこに込められた目に見え難い、“感じる”次元の美を我々が見出しているからだろう。もし仮に、それが見出せていなければ、我々皆はこれほどまでに欲望を充足するシステムが完成された社会においては、カラオケなりキャバクラにでも行けばよいわけであるが、そうはならない。

 靖国神社の英霊の遺書を拝すると、「桜の梢に咲いて会おう」と綴られている。ここにおいて、桜は人と桜というふうに相対化される存在ではなく、「日本人」という言葉のうちに何等違和感無く一体化しているのである。それこそが、桜という花の持つ力であり、我々が桜を愛でる心なのだろう。

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by shikisima594 | 2007-03-23 23:59 | 随想・雑記
三島由紀夫『行動学入門』
f0018981_2012483.jpg 先日の卒業式をもって長い間お世話になっていた先輩方が卒業していかれた。自分が大学入学と同時に、皇国史観研究会の門を叩いてより三年間にわたりご指導とご鞭撻を仰いできた先輩達である。一時代が終わったといえば大袈裟に聞こえるかもしれないが、何かが終わったとの実感が自分の内にある。

 そして早いもので、いよいよ自分が四年生となる番が来たのだと思うと、感慨深いものがある。卒業式は、ひとつの区切りであり、いうなれば「おわり」である。一個の「おわり」の訪れが、次代の訪れと新生をもたらす。それはさながら、舞い落ちた木の葉の下から新しい芽吹きがでているかのようでもある。

 すべからく物事には「おわり」がある。そして、それぞれの「おわり」には筆舌に尽し難い美と感動が包含されているのは誰しも漠然と思っているところだろうが、その「おわり」に込められた意義を追及したのが、この三島由紀夫氏『行動学入門』である。

 行動はすべてはじまりと終わりを伴う。昭和を代表する行動的文筆家だった三島氏は、その行動を探求することは、同時に「おわり」を究めることでもあった。といっても、本書の主題ともなっている『おわりの美学』は硬く難解な文章ではなく、週刊誌『女性自身』に連載されたものであり、平易で読み易く、三島氏独特の皮肉の効いた面白い文章になっている。

 例えば、先に挙げた卒業ということだが、三島氏は「学校のおわり」について次のように書いている。

「さて、問題は、この『学校のおわり』です。学校のおわりは卒業式ということになっている。しかし、それで本当に卒業した人が何人いるでしょうか?
 本当の卒業とは、
『学校時代の私は頭がヘンだったんだ』
 と気がつくことです。学校をでて十年たって、その間、テレビと週刊誌した見たことがないのに、
『大学をでたから私はインテリだ』
 と、いまだに思っている人は、いまだに頭がヘンなのであり、したがって彼または彼女にとって学校は一向に終っていないのだ、というほかありません。」(107頁)

 毒舌ながらも鋭い指摘だと思う。この意味からして、本当に学校を卒業する人間がいまやどれほどいるのだろうか。かくいう自分だって卒業できるか分かったものではない。また、最終章は『革命哲学としての陽明学』となっている。

 陽明学とは支那の王陽明が唱えた朱子学の一派であるが、行動に重きをおき、過去において多くの維新・革命に影響を及ぼした思想である。『行動学』と称する以上、三島氏が陽明学に言及していたのは流石と思ったが、その内容も短いながらも濃い。

 江戸時代、民衆のために蜂起した大塩平八郎と陽明学との関係性、また大塩平八郎の思想が後世にどのような影響を及ぼしたかを、西郷隆盛、吉田松陰を挙げて論及しているのであるが、その中で、三島氏が革命原理としての陽明学を「能動的ニヒリズム」と指摘しているのは、興味深くもあった。

 三島氏の市ヶ谷での最期の瞬間。氏を突き動かし、氏の胸に去来していたのは、ニヒリズムであったのか。その答えは分からないが、氏の革命と行動に対する思想の片鱗が垣間みられるのが、本書でもある。

タカユキ

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by shikisima594 | 2007-03-22 20:31 | 読書録