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文化国粋主義という思想 〇二四 本論終了
 ここに連載し説明している文化国粋主義とは、私のもつ社会的理想の仮称である。
 これまでに本論は総括され、二つの重要な補足も施した。そして残る最後の補足事項が、本日ついに完結する。

 まずはこれまでの主張を追いたい。
 文化国粋主義者は、正統な民族自決が、秩序をもたらす普遍的な法であると考えなければならない。
 しかし、それぞれの民族自決は、いずれそのうちの大国が国際間の価値に対して、力を及ぼしかねない。放置すれば、それは結局帝国主義の横暴の様相を呈すことに堕す。普遍的な法は、当然その状態も想定しなければならない。
 さしあたり、我々の国際社会への要求は、民族独自文化ではなく、これまで我々が普遍文化と呼んできたものに向けられる。すなわち、具体的で物質的な実証主義であり、科学である。その方法が、人類に不変的な法則を探り出してくれれば、我々は真に普遍なものを作り出す事ができる。
 
 然るに、断固として我々は、西洋人の標準が世界を覆いつくす現在の世界の成り行きが望ましかったものと思えない。それは、西洋で無くとも同じである。世界の諸民族の権威を超越する民族独自文化が現れれば、全ての民族から、或いは国際社会から厭われることになるだろう。言語帝国主義は確実に功を奏し、少数言語を危機の前にさらし続けるという事が、果たして民族を考える上で正義足りうるかどうか。

 だから、我々の主張は当然のものであるに過ぎない。

一八、各民族は連帯し、国際関係社会から民族独自文化の影響の駆逐に努める。

 民族国家を前提とする正統なる国際社会からは、あらゆる民族の影響がむしろ取り除かれなければならない。もし万が一日本人が国際社会を精する事に成功した時でも、日本語を国際語に押し上げ、世界中に君主制と国体思想を押し付け、電子情報の上では全ての文字言語を無理に左縦書きにあわすことが行われたのでは、傲慢な西洋と何も変わることは無いから、失敗とみなすべきは当然である。それが何処なら許されるかという考えは、民族平等の思想のもとにすぐ突き崩される。畢竟我々は、無機質で生命の無い技術に、その共通性を見出すほかはない。言い方を変えれば、これは科学の八紘一宇である。

 これを実現するのに主体的な立場を担ったものは、歴史上最後の道義的中枢となるだろう。日本帝国は、既存の国際秩序に投じられる一石であるものと信じてやまない。皆様がそのような使命を自覚することを願う。しかしながら、日本以上に様々な地域によって、そのような民族独自文化の独裁支配には非難が寄せられる。苦しんでいるのは、日本だけではない。そして、敵は西洋だけでもないのである。


 本項を以って、文化国粋主義の概論は完結したものとしたい。ここまでご覧になっていた方に、感謝の意を表します。以後、賛否を問わずご質問にうけ答え致したい。一人でも多くの方にご叱咤いただければ幸いである。
 臆面も無く私の愚考を申せば、この思想は今後の威信派の指針に明らかに有用な方向付けを行える。もしこの考えに賛同するものがあれば、この戦略論どおり宜しく宣伝ご協力賜りたい。

 天皇陛下万歳
 世界諸民族万歳
 文化国粋維新万歳

新天保暦二六六七年〇五月一五日 ムネカミ

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by shikisima594 | 2007-06-28 23:59
慰安婦決議、なにするものぞ
米下院外交委員会は26日午後(日本時間27日未明)、旧日本軍のいわゆる従軍慰安婦問題で日本に公式な謝罪を求める決議案の修正案を賛成39、反対2の賛成多数で採択した。(読売新聞)

 もはや、多くを語る必要もない。朝鮮の被害妄想と、アメリカのくだらねえ正義漢気取りにウンザリするだけだ。戦時中に勝手に日本軍に金魚のフンみたいにくっ付いて来た朝鮮人売春婦に、なんで今更、謝罪や賠償の必要があろうか。

 さらには、それをアメリカに言われる筋合いは、サボテンの針の先っちょほども無い。てめえの国の景気や大統領の人気によって、世界中に爆弾の雨を降らせてる国が、学校の先生みたいに日本に説教たれるのは、筋が通らないどころか、憤りを感じる。

 だったら日本もアメリカに対して、「原爆投下・無差別空襲に対する謝罪と賠償の要求決議」をやればいい。慰安婦なんかよりもこっちの方が遥かに、人道と平和を破壊した蛮行だ。まあ今のアメリカの傀儡となり果てた腰抜け自民党政府にはできねーだろーけど。

 だからといって、いつまでも先生に叱られた小学生みたいに指をくわえてうつむいているのは情けなさ過ぎる。安倍総理にいたっては、姑息にも訪米の折に、“おわび”をして事態の沈静化を図ろうとしたようだが、これなどは「従軍慰安婦」の追認に他ならない。

 アメリカが言った事に日本が唯々諾々としてばかりの情けない構造が固定化されているからこそ、今回の決議が大きく取り沙汰されているのだ。アメリカが言えばそれに従う「保守」を自称する方々はどうするのだろう。

 アメリカの議員が靖国神社遊就館の展示内容を批判したのを受けて、遊就館の展示を改めるように騒いだ岡崎久彦などはどうするのだろう。「アメリカ様が言うのだから、日本はただちに元従軍慰安婦の方々に謝罪と賠償を」と言うのだろうか。

 それとも「今回の決議の背景には日米を離反させようとする中共や朝鮮の意図があるから、今回の決議は、戦略的な見地に立って黙って受け入れるべき」と言うのだろうか。どっちにしても主体性を欠き過ぎた意見である。

 日本は今からでも遅くはないから、アメリカに対して「従軍慰安婦」の虚構性について言葉を尽くして説明し、アメリカがかつてに日本に対して行った蛮行を糺すぞと主張すべきであろう。それができなくても、今回のアメリカがやった決議は日本の名誉を貶めるものであると反論声明も出せばいい。

 そしてなにより、根本的な問題として、河野談話の白紙撤回を求める動きますます高めていかねばなるまい。いま現在、河野談話の白紙撤回を求める署名サイトで動きが燃え上がっているところであるが、日本人の意思をアメリカにも朝鮮にも示そうではないか。慰安婦決議、なにするものぞである。

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by shikisima594 | 2007-06-27 23:07 | 随想・雑記
大丈夫なのか?日本の食卓!
 今月の21日に、食品会社の「加ト吉」が販売する牛肉コロッケ等に使用されていた牛肉のミンチに、豚肉が混じっていた事が報道され話題となった。

 そのミンチを出荷した食肉製造加工会社「ミートホープ」の田中社長は7~8年間に及び牛肉ミンチに豚肉やパン、鴨肉を混入していた他に、他社の鶏肉製品の袋を偽造して、そのメーカー以外の鶏肉を詰めて出荷していたという。

 よくこの様な事をやってのけるなぁと、つくづく呆れてしまうのだが、当の社長は反省しているのだろうか?ニュースの映像を見る限り、私には、とても反省している様には見えなかった。
 「スーパーの安売りに釣られるような消費者が悪い」といった内容の発言を聞いていると、怒りが込み上げてくる。

 国内の食品産業の信頼性を失墜させたこの事件だが、国外の食品は果たして安全なのだろうか?

 先月の23日に、ファミリーレストランの「ジョナサン」に納入されていた中国産ほうれん草に、基準値の12倍の農薬の成分クロルピリホスが検出されたと東京都が発表した。

 更にローソンとニチレイが販売していた中国産冷凍ほうれん草からも同様に基準値を超えたクロルピリホスが検出されている。

 食品の安全性に問題のある国は中国だけではない。
 
輸入が再開され始めたとはいえ、米国産牛肉のBSE(狂牛病)問題は未だに解決していないし、去年の末に韓国に輸入された米国産牛肉からは、同国の基準を上回るダイオキシンが検出されたので、その牛肉が廃棄処分されるという事があった。

 このように、国内外の食品に何らかの問題が発生している中、いったい農林水産省はどういった取り組みをしているのだろうか?
 
 前述した牛肉偽造問題だが、農林水産省は5年前から北海道の保健所と合わせて計8回の立ち入り調査を「ミートホープ」に対して行っているが、連携が取れず、いずれも原材料偽造を突き止める事が出来なかった。

 また、松岡農林水産相の自殺問題とそれに纏わる献金問題が、農林水産省のイメージを悪くしている。
 
では、国外の食品に関しても、厚生労働省はどれだけの対応を行っているのだろうか?
 先に挙げた中国産ほうれん草に関しては、当初はブランチング(下茹での事)された冷凍野菜のみにしか検査を行わず、民間団体からの報告で気がついた。

 本当に食品の安全に対して考えているのか不思議におもえてしまう。
 
 幸いなことに、最近は消費者の間で食品の安全性に関して疑問を持ち、民間が検査を行うというケースが増えている。

 事実、中国産ほうれん草の農薬問題は民間団体からの報告で判明しているのだ。
 しかし、民間がいくら頑張っても国家が働かなければ、限界があるのではなかろうか?
 
 例えば、中国に対する日本産の米の輸出が再開されたが、これは農林水産省の働きかけを中心として、害虫が残らないように薬品で防除した米の輸出は認めると中国に合意させた事だ。

 国内外を問わず、食品の安全性が求められる昨今、民間も国もより良い食品を流通出来る様に努力すべきである。

 文責 洗国


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by shikisima594 | 2007-06-26 21:49 | 随想・雑記
二〇万アクセス達成感謝!
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by shikisima594 | 2007-06-25 21:29 | 告知
迷走

 今の日本を美しい国だといえる人はいるのだろうか?自分はまったくそうだとは思えない。美しい国だといえるならば、資本主義にあまりにも毒された人間だけだろう。世の中は「格差社会」だ個人主義はすばらしいとか、自己責任だとかいろいろな雑誌では書いてあるが本当にそうだろうか?自分はこの現在説かれているすべての論理を消しきり日本人として社会的にいきやすい世の中を作ることが優先されるべき課題なのではないかと思う。

 ちなみに今の日本は「格差社会」ではない、的確に言えば「乖離社会」である。想像をしてくればわかりやすい、今の日本の社会体制は中間組織が多いシナ的な国家体制である。それはどういうことかといえば、皇帝に当てはまるものが日本国政府そのものであり。科挙に合格した官僚というものがその日本国を支持している金持ちである。それ以外がすべての国民である、皇帝や官僚にとって国民がどのようになろうが関係ない。下々の人間がどう苦しもうが関係ないのである、なぜなら別世界の住人だからである。まさに今の日本人は政府によって目をつぶされた盲民の状態になりつつある。政府と国民の乖離現象、といってもそれを放置し続けた国民にも責任はある。なぜなら、規制緩和、規制緩和で自分たちにとってはまったく益もないことを正しいことだと洗脳されて、今あるこの現実としての結果を想定できなかったからである。国民が盲民ばかりであると国家が肥る、これは古代から行われてきた現実である。

 個人主義については特に言及することもないだろう、わがクニの歴史上存在し得なかったものを低脳な知識人によって洗脳されて、啓蒙されたと信じてしまった愚民が作り上げてしまったものである。個人主義には絶対的に共通的な何かが必要となる、ヒエラルキー的に関係なく普遍なる何かが必要となるのだ。それは西欧ではヤソ教がそれを担っているからできえたものであって。日本人にとっては集団という単位がすべてになるがゆえに個人主義というものは単なる私人主義になってしまった。この私人主義が結局はミーイズムに支配される、孤人主義となり砂丘の民となってしまったのである。かの孫文は「日本人は米のようにくっつきたがる」という精神は消えうせ、今ある日本人は単なる砂となった。砂が何かを作り出すことはない、砂はそのまま粒となり消え行くだけである。

 自己責任についても簡単である、絶対的前提として「責任は分散される」。簡単な話だ、ある企業のある個人が不正を行ったとしても、その責任追及は企業単位で行われる。個人に対しての罰則は会社が行い、すべての責任はその監督者としての上役やその上役が属している企業そのものについて責任追及の矢が刺さる。よく評論家が好きな「こんな国~」にしてしまったのは、すべて国民の責任である、不正をするような政治家や官僚を選び、それを許してきてしまったのはその糞評論家を含めた国民の総意である。ケツをふかさせられるのは国民のすべてが愚昧であり、無知であり、低脳だからである。すべては我々にも責任があるのだ。

 ゆえにだ、この醜い国を普通であった時代の日本に戻さねばならない責任がある。それは未来わが国で生きる人たちのためである。すべての労働者が働いたら、働いた分帰ってくる。過労死だとか、ワーキングプアだとか、出ない社会にせねばならない。ちなみにだ、資本主義はいま完熟し腐り始めた状態になっている。まさにマルクスが言うような時代になったのである。共産主義革命は資本主義の円熟期が腐り始めてから発生する。正直、自分としては日本国なんぞ滅びてしまえばいいと考えている。腐らせた原因が国民にあるとはいえ、国民にとって益にならず日本人のクニを侵害する国家なんぞ産業廃棄物以下である。

 性に合わず過激なことをいってしまったが、わが国は内側から滅びない限り再生をしないだろう。なぜなら、外部の力によって国家が滅びてしまった残骸がこの現状である。内側から再生したわが国はまさに美しい国に戻れるのではないかと自分は信じている。

 文責 ○○おじさん

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by shikisima594 | 2007-06-24 21:57 | 随想・雑記
文化国粋主義という思想 〇二三
 ここに連載し説明している文化国粋主義とは、私のもつ社会的理想の仮称である。
 これまでに本論は総括され、二つの重要な補足も施した。遺すところは、既に最後の補足事項のみである。

 前回、我々の普遍的理想は既に明らかにされた。民族独自文化のまったき姿を持つ民族の政治組織を、普遍文化が束ねるという言及である。その体制を、我々は理想とする。そして、ついには全体の主張も帰結を迎えつつある。今回は、様々な理想について吟味し終えたところで、改めて現実世界に目を転じてみたい。
 それとは以下のような精神を持つ。

 一七、西洋的文化が、国際関係社会に深く取り入ったことと、それにより、世界で西洋的文化が圧倒的優位を保っている状況を反省し、

 正直なところ、私がここまで書いてきた理想は、この現実とはかけ離れたものに過ぎない。なんらの貶めるような悪意を持たないものでさえ、この理想全体は非現実的なものであるとの考えを胸に抱くだろう。それは一方厳然たる事実である。わが文化国粋主義の理想は、この世界から離れている。

 しかしながら、ここにあげられるのは、この世界の現実であると同時に、この世界で起こってはいけなかったことなのではないだろうか。現状は最も現実的であるが、それは理想が反映された世界では決して無かった。このことは問題ではなかったろうか。
 この点は、もっと深く掘り探る事ができる。だがすなわちその問いはさしあたり単純なものでしかない。我々は現実を良しとするか否か。その趣旨を入れながら、ここに現実を反省してみるべきである。

 未曾有の悲劇は、まさしく一人の男の功績に寄った。その名も、コロンボである。
 偶然にも彼らのような野蛮人が、徳に不相応な船舶技術を手に入れて、世にも無防備なアラワク人の連邦に侵入してから、全ての運命は動き出した。カリブ諸島の大部分は、初期の日本にも似た連邦統治体制であった彼らの領地であった。彼らは芋とタバコの栽培のほか、目だった規模の技術は持っていなかった。そして、彼らが公益によって得た、アステカやマヤの金細工を身に着けているのが野蛮人どもの目に留まったのである。
 想像を絶する悪夢の後、今日、彼らアラワクを次ぐガリフナ人たちは、およそ四十万人である。彼らは、奴隷船の生き残りである黒人たちとの混血と、その他の病気に免疫の無い純血種の淘汰及び酷使による絶滅の結果、かつての人種的特長はほとんど残っていない。彼らはアラワク語を伝えるが、その他の様々な文化は結局残す事ができなかったらしい。彼らは今ほとんどがマヤ人のユカタン半島に住んでいて、かつての郷土はハイチやキューバなどの植民地国家に占領されている。
 アラワク人に続いて、甚大な迷惑をこうむったのがマヤ人であった。マヤ人は今、互いに通じ合わない十以上の言語の総合で八〇〇万人程しかいない。新大陸で唯一と言われる文字文化は、悪魔の聖典として粗野なカスティーリャ人の聖職者にほとんど焼かれてしまったために、いまや自然に読める者は存在しない。高い技術力を誇った彼らの体系的都市国家社会は、カスティーリャ人たちの横暴な政策とその後の植民地国家により完全に衰退した。
 また、世界有数の建築技術を駆使して作られたメシコ・テノチティランの王が率いるナホア人たちは、今日、彼らの築いたアステカという王国の名を冠した全く別の植民地国家の中で、カスティーリャ人主体の階層に押し込められている。
 同じように、植民地国家の中で、かつての主権を完全に否定されてしまったがごとき人々は世界中にいると見なければならない。彼らの主権を否定してまで、果たしてそのちの植民地国家の正当性を信じてよいものだろうか。侵略は成功したか否か。今日、この様な汚らわしい法体系が世界に実効性を誇っている。

 さらに、彼らから吸い上げられた金銀は、欧州に持ち帰られ、やがて戦争と搾取と植民地主義の近代が始まる。西洋人画世界を座席した時、彼らの全ては、世界を搾取する悪人以外の何者でもなかった。そしてその成功は、現在に至るまで、主権の有無をはじめとして民族の不平等をもたらしている。
 最終的に覇者に落ち着いたのはアングロサクソン人であった。イングランドの範囲に過ぎなかったイングランド語は、いまや世界共通語である。彼らは、スペインのカスティーリャ人や、アラブ人よりもうまく世界を征服した。現在日常に溢れる洋風は、ほとんど彼らのものである。
 彼らは自分の文化圏が世界中にある状況を利用し、今後国際的に人口を流動しようとする言説を起こしている。明らかに、その住む範囲の多いものにとって有利になるにもかかわらずである。

 この様に見てくると、我々は現状に不快感を催すようになる。これは確かにおきるべくしておきた事であったかもしれない。しかし、おきるべきであったか否か。

 奢るつもりは無い。ただ率直に言って、我々は歴史事実を裁く視座を手に入れたのである。我々の答えは、既に決している。断固として我々には、世界の成り行きが望ましかったものとは解せない。

ムネカミ

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by shikisima594 | 2007-06-23 23:59
元寇の「神風」を考える
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 梅雨の季節となり、雨がぱらぱらと降り続いている。現代に生きる我々にとって、台風や雨は週末の予定を台無しにして、平日の足を重たくさせるものでしかないように思われる。

 しかし、歴史をかえりみれば、この台風や雨というものも決して悪いものではないということに気が付く。

 今から730年前の文永十一年十月、フビライ・ハンを皇帝とする元の軍一万五千人が日本に攻めて来た。元寇である。

 激戦のあった二十日夜、嵐がまきおこって元の兵士一万三千五百人余りが溺れて死に、生き残った者は命からがら逃げ帰った。

 建治元年、元から使いが来て「日本は元の属国になり、人質と貢ぎ物を出せ」と迫ったが、時に二十五歳の執権北条時宗はこれを龍之口で斬り捨て、日本の断固たる姿勢を示した。

 弘安四年六月、元の大軍がふたたび博多に攻め込んで来た。その数たるや前回の十倍近い十四万。亀山上皇は「敵国降伏」の祈願をされ、日本の武士たちは「神国日本の土は踏ませない」と、必死に、波打ち際で元軍を食い止めるべく奮戦した。

 そして、このような武士たちの防戦の前に、上陸できず沖合の船にとどまっていた元軍は、またしても嵐により海の藻くずと消え果てた。これが我々の知っている元寇の「神風」である。

 これに対して、いわゆる唯物史観系の歴史学者は、「ただの偶然をもとにして、神がかった神国意識と皇国史観が生まれた原因」と歎いてみせるし、通俗的に保守系とも言われる井沢元彦なども「べつに神風が吹いたのではなく、鎌倉武士が必死に戦っていたから」と語るにとどめている。

 「神風」否定において両者は、軌を一にする。しかし、事はそれほど簡単なものではあるまい。もし仮に、この嵐が吹かなければ、十四万超の大軍を誇った元軍は必ず上陸し、九州全土を制圧していたであろう。

 九州の制圧は、かつての足利高氏が上洛した例にもあるように、そこから元軍は都に攻め上り、まさに日本は滅亡していたかもしれないのである。

 こう考えると、もし、元軍が上陸していたならば、この一連の嵐は「神風」とならなかったことに気付く。なぜならば、彼らは上陸してテントを張って野営すれば、嵐によって海の藻くずにならないからだ。そういう意味で、ただの嵐を「神風」にしたのは、元軍を必死で食い止めた、日本武士たちの力である。

 「天は自らを助くる者を助く」という言葉がある。「神風」は放っておいても吹いてくれるものではない。必死で努力を続ける者達が、偶然を機会として掴みとるように、「神風」を吹かせるのだ。

 元寇の「神風」は今の日本に生きる我々に大きな教訓を与えてくれる。「神風」が吹くのを待つのはもうやめよう。我々自身が、日本に「神風」を吹かしていこうではないか。

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by shikisima594 | 2007-06-22 23:55 | 随想・雑記
「保守派」の事大主義を笑う
f0018981_23112679.jpg 先日、同世代の「保守派」の若者と一献する機会があった。みな、知識や問題意識もあって、安全保障や歴史認識の議論をさせれば、堰をきったように喋る。

 僕は酒の席でまで政治の話をしたり、知識自慢をするのは好きじゃないから、相づちを打つ程度にとどめておいた。すると、僕よりも若い子が「自分はいま日本の政党に支持するところはありません!」と言いはじめた。

 うんうん、わかるわかる。既成政党に支持すべきところなんてありゃしないんだ。だから僕らが新しい政治勢力をつくりだしていかねばならん!と言うのかと思った。

 しかし、次に彼の口から飛び出した言葉は、

「自分は、アメリカ共和党を断固支持します!」

 というものだった。さっきまで、「現代日本がどうの」「愛国心がどうの」、安全保障だの歴史認識がどうのと、憂国の気概を吐いていた者が、恥ずかしげもなく、アメリカ共和党を支持すると叫ぶのだから、さすがに僕も呆れてしまった。

 それまで大人しく相づちを打っていた僕も、彼に「なんでアメリカ共和党なの?」と聞いたら、「あたりまえじゃないですか。強いし、日本のことを思ってくれてるからですよ」と大真面目に言うのだから、いいかげん腹が立って来た。

 本来ならば、この記事にはブッシュ大統領の写真ではなく、彼の写真を掲載してやりたいぐらいだが、武士の情けで勘弁してやるとする。それにしても、日本人の誇りを云々しながら、同じ口で「アメリカ共和党を支持する」は情けなさ過ぎやしまいか。

 かつて、自分達の祖先を圧倒的な軍事的威嚇により開国させ、数々の不当な要求により、ついには開戦に追い込み、挙句に日本全土への無差別空襲と広島・長崎に原爆投下をしたのはどこのどいつか忘れちまったのか。

 そんな人が、他人にむかって「日教組に洗脳されてる」「歴史を知らない」などと高説たれるとは恐縮至極を通り越して、笑止千万である。日教組に洗脳された子供たちですら、広島と長崎への原爆投下はよく知っているし、無差別空襲も知っている。

 それを知った上で、「それでもアメリカ共和党を支持します!」と言っているならば、それは奴隷根性ではないか。誇りもへったくれもあるまい。こういう人達は、「日本に併合される前の朝鮮は、清やロシアなどの強国におもねる事大主義に陥っていた」と嘲笑う。

 確かに当時の朝鮮は事大主義に陥っていた。それは歴史の事実であり、当時の朝鮮がとっていた態度は批判されてしかるべきだろう。ただし、「アメリカ共和党を支持します!」なんぞと言っている者には、朝鮮の事大主義を批判する資格はない。

 自国を自分達の手で守り抜く気概を持たず、他国に自らの生殺与奪をゆだねて、その中で胸をはったところで、どうしようもあるまい。かつての朝鮮と同じ事大主義に陥っているし、内実の是非はともかく、現在の韓国や北朝鮮の方が立派ではないか。保守は保守でも、戦後体制保守でしかない。いかに知識があっても精神の卑しい根性無しである。

 そういえば、以前にこのブログで、「ポチ保守度診断」というのをやったことがある。25個の質問に答えて「ポチホシュ度」を計るもので、ヒマな方はやってみたらいかがだろうか。それで、この診断をのっけたあとで、とある保守系の会合に顔を出したら、「あの、自分は46だったんですけど」と言って来た人がいる。

 彼は「生粋の保守派」を自任しているような人だったが、この診断で「46」がでるという事は、「郵政民営化などでアメリカに日本人の資産が流れてもいい。」「戦前の日本は自由のない全体主義国家だったと思う。」という質問に「イエス」と答えていることになる。

 ついでに彼もアメリカ共和党支持者であった。日本人のくせに、アメリカの投票権がないのにである。もはや、彼らは保守だの愛国心だのと云いながら、その中身は外国人にひとしいもので、日本を守る観点からすれば、日本共産党の方が遥かにマシである。

「日本を守っている政党はどこか?その答えは、三番目は民主党、二番目は自民党、そして一番はアメリカ共和党」という冗談があるという。まだこの冗談は半分笑っていられるが、いまのようにアメリカ大統領選挙の行く末に一喜一憂するような国では、この冗談が完全な常識として定着してしまいかねない。

 そうならないためにも、事大主義に陥った自称「保守派」の甘言弄言を排し、日本が真の独立を回復するために、努力して行かねばならない。日本は日本なのである。

タカユキ

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by shikisima594 | 2007-06-21 23:08 | 随想・雑記
平泉澄「国史学の骨髄」を読む
 今回は平泉澄「国史学の骨髄」(著平泉澄、編田中卓『平泉博士史論抄』平成十年二月、青々企画、収録)を取り上げる。本論文は「昭和二年六月二十三日朝に一気に書き下され、同年八月発行の「史学雑誌」(三八─八)に掲載された。」(同書「解題」五百八十項)ものである。昭和二年というと、平泉先生は東京帝国大学助教授、当時三十三歳であり、京大学連事件が世相を騒がせていた時代である。

 この背景も含めて、平泉先生の歴史観が強く見て取れる重要な論文であると私は考えている。

 まず初めに「歴史のあるのは単なる時間的経過の為ではない。」と平泉史学に於ける歴史の定義を行う。歴史とは「明らかに高き精神作用の所産であり、人格あって初めて存在し、自覚あって初めて生ずるものである。」(八十三項)と説く。以前平泉澄「我が歴史観」を紹介したがそこに於いても触れられた平泉史学の大切な部分である。

「単なる時間的経過」を歴史と言うならばこの世に存在するあらゆるものに歴史が存在し実際その様な意味で使われる事も多い。しかしそれでは鳥獣と人間に於いての歴史には差が無い事を意味する。それでは何故我々は国史を学ぶのか、鳥獣と同じならば取り分け国史を大事にして学ぶ意義も無いであろう。ここで「人格あって初めて(歴史は)存在」すると定義する事で人間と鳥獣山河と区別し、国史学の独立性を確立しようとしたのである。

 そしてその「人格」に対しても「進歩発展」を要求する。藤原頼長や特に日蓮を例に挙げその過去・現在・未来の精神の変化に着目しこれを個人に於ける重要な時代区分目安と考える。ここでは人格あって歴史が始まると思考している事に留意しよう。


 次に「重要なるは、歴史は即ち復活なりといふ事である。」(八十五項)「(崇高なる人格に)生命を与へて歴史の殿堂に迎ふるものは、現代人の認識の力である」(同項)と説く。どういう意味だろうか。具体例として橘曙覧の歌の価値を評価した正岡子規、本居宣長の精神を受け継いだ伴信友・平田篤胤、神勅・神器の意義を明らかにした北畠親房の様に、例えその時代に大なる評価を受けなかったとしても、彼等「人格」者と同じ「人格」を持つ人間が表れれば何十年何百年時を経ようとも其の精神はいつでも現代に「復活」する。「火を伝えるものは火でなければならず」(八十六項)「同じ偉大さ」(八十七項)を持たなければ歴史・精神を受け継ぐ事は不可能であると言う事である。

 以上の事を踏まえ、本論文で私が一番重要であると思う所を、少々長いが引用する。


「更に思ふ、我等は紛れもなき日本人として、桜咲く日本の国土の上に、幾千年の歴史の中より、生まれ出で、生ひ立ち来たつた。我等のあるは、日本あるによる。日本の歴史は、その幾千年養ひ来たつた力を以て今や我等を打出した。我等の人格は、日本の歴史の中に初めて可能である。同時に、日本の歴史は、我等日本の歴史より生まれ出で、日本の歴史を相嗣せる日本人によって初めて成立する。仏を相嗣せるものは仏でなくてはならない。宣長を復活せしむるものは、篤胤でなければならない。(略)日本の歴史を求め、信じ、復活せしむるものは即ち我等日本人でなければならない。」(八十九項)


 平泉先生は「日本の歴史=崇高な人格者達の歴史」と捉えている。この人格者達の歴史から生まれてきたのが「我等日本人」である。「我等日本人」が歴史を受け継ぐ為には「人格」を作らねばならない。「人格」を作るとは如何なることか。「志尚立たざる者に於いては、歴史は未だ存しない。」(八十三項)から考えると「人格」を作るとは志を立てる事である。

 志(=人格)は「日本の歴史(=崇高な人格者達の歴史)の中に初めて可能である」のだからその志は崇高な人格者(曙覧・篤胤・親房等)と同じかそれ以上の志を持たねばならぬという条件が出てくる。そうする事によって初めて歴史を受け継ぐことが出来る=崇高な人格者達の「人格」を受け継ぐ事が出来るのである。これを「相嗣」と表現している。

 崇高な人格者の歴史を受け継ぐ事が出来た人は人格者となり、日本の歴史を構築していく。それはまた後世に伝えられる。そして次の時代の者がその人格者に感化され、志を立て人格者となり、歴史を作り…と無限の連鎖を繰り返す。「現代人の認識の力」を要求し、「かくて日本の歴史は、日本精神の深遠なる相嗣、無窮の開展であ」(九十二項)る。と宣言するのはこの理論による。


 では、歴史の捉え方についてはどう語っているか。「史学は科学として純粋客観を必要」(八十九項)とする為私達となんら関与する事の無い外国の歴史に於いて「最も完全にして公平なる歴史」(同項)を見る事が出来るという見解がある事について、歴史は「単に事実をありのまゝに描写すべきものと解する僻見」(同項)であるとし「歴史は、その本質に於いて、決して事実そのまゝの模写ではない」(同項)「無関心の傍観者として対するならば、この世相は複雑混沌極まりなく」なってしまうとする。

 うがった見方をする方はこの部分を平泉は事実を無視しても良いと言っていると考える様だがそれは間違いである。平泉先生の実証主義に関する見解は今まで紹介してきた。ここで平泉先生が言いたい事は、事実をありのまま並べるとしたら起床から昼食、就寝まで全て書く事が求められる。その様な事は不可能だ。歴史を捉えるには必ず歴史家の問題意識が反映されてしかるべきである、という意味である。ではどうするべきか。

 「我等が之を(=歴史を)組織するは、自らの意志により、信仰による。歴史は単なる知的所産ではない。歴史の認識は知的活動の外に情意の活動を必要と」するものであると説く。意志は勿論歴史を受け継ぐ為の歴史家の人格である。信仰とは「人格者」の精神を信じ汲み取らんとする心である。「神を信ぜざるものには神の存在は感知し得ない。」(八十六項)と言うが如く、歴史の中より積極的に精神を汲み取ろうとするならば己自身は人格者達の精神を信じなくてはならない。歴史的に、結果的にそうなった、ではなく、人格者達がこうさせた、と信じなくては彼等の行為は全て偶然的なものとしか解釈出来ない。

また、ここで急に「信仰」が出てくる背景として、大正末期に平泉先生が直面した“文献研究でも説明がつかず膠着した論議を打破する為”にこの様な心理面が強調されたと研究する論もある。(昆野伸幸「平泉史学と人類学」日本思想史懇話会編『季刊日本思想史』六十七号、ぺりかん社、平成十七年十二月参照。また此の部分だけではなく、本記事全体も之を踏まえている)

 歴史は「我が意志」で「組織」され、「我が行」で「把捉」され、「我が全人格」で認識される。平泉先生にとって歴史は日本の歴史を構築した人格者=日本人の歴史なのだから、我等日本人が認識出来るのは「祖国の歴史に於いて」他にないのである。つまり人が認識すれば歴史=人格者達はいつでも「生きている」と言える。それは「歴史は永生」(以上引用全て九十項)である事を確信する事だった。


 次の段に移ろう。平泉先生は歴史の変化は人格の発展ではならないとし、革命は国家に於ける「発狂の際の如き」(同項)ものであった。日本に於いては神勅の発露である建武御中興により明治維新により「国家の歴史は絶えず生き生きと復活する。」「未だ曾て革命と滅亡を知らず、建国の精神の一途の展開として、日本の歴史は唯一無二であ」り、日本の歴史こそ「歴史の典型」であるとする。(同項)


 そして「史学は、歴史を抽象化して法則を立てんとする学問では決してない。」(九十一項)と説く。「歴史」の「抽象化」と「法則」を立てようとする学問の動きとは、時代背景を考えると人類学・唯物史観を念頭に入れていると思われる。平泉先生は歴史の研究(法)は日本には日本の、東洋には東洋の、西洋には西洋の「独特」のものがあり、その為領分が分かれていると反論する。また今西洋史学が日本に流入したとはいえその長所を取り込んだ後、日本の研究法は自らの特異性を発揮して「本来の面目を明らかにするであらう。」(同項)と言う。何故此の様な事が言えるのか。「独特」とは何か。それは「日本精神」(同項)であり「東洋精神」(同項)ある為である。「国境は単なる地理的のものではない。否地図の上にすら国境あり、況や、精神界の微妙なるに於いておや。」(同項)と説明する。

因みに「学問に国境なしをいふを、単に学者の提携、相互の補助と見れば即ちよし。」(九十二項)「かくいふ事が、世界的知識の拒否を意味するものではない事はいふまでもない」(同項)としている。簡単に言えば精神の混同は反対、技術の流用は可也という訳である。
 最後の纏めである。日本の歴史は「日本精神の深遠なる相嗣、無窮の展開」(同項)であり、これは「歴史の典型」であり、日本のみに存在する。日本人は日本の歴史の中で初めて人格を作ることが出来、之を受け継ぐことが出来る。此の中で歴史の研究も日本独特の発展を遂げてきたと言う訳である。「国史学は国史学として、あざやかに一個独特の旗幟を翻す。日本精神にして亡びざる限り、この旗も亦断じて倒されるべきではない。」(九十三項)と論文は締めくくられた。


 結末から分かるように直接の目的は当時流行の人類学・唯物史観に対する国史学の優位性・独自性を確保せんが為に打出された攻勢的論文なのである。これも平泉先生に於ける歴史観の形成過程に於いて非常に興味深いが、またその国史の独自性の理由に着目すべきであろう。人格の形成と継承を柱とする事により人類学・唯物史観と決別し、これをもって国史を日本精神の連続と捉えたのである。また歴史家に主体的な歴史認識を訴え、それを「行」と表現したのも注目して良いだろう。私が平泉先生に興味を寄せるのはひとつにこの点である。以前紹介した葦津珍彦先生の論文の時代の様に、「神州不滅」の確信が迂闊には持てない時代になってしまった。現代に於ける“国難”を克服する為には我々日本人ひとりひとりが思考と行動を要求される。その中に於いて、歴史から(静的である)「神州不滅」の確信と、(動的である)「国体護持」の信念を紡ぎ出す為、平泉先生の唱える主体的な認識、人格の形成と継承という能動的な歴史学に、現代を克服する鍵が隠されているのではないかと感じているのである。

彩の国

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by shikisima594 | 2007-06-20 23:58 | 読書録
売国奴・緒方重威を糾弾する
f0018981_20563466.jpg 昔から気長な性分じゃないが、久しぶりに腸の煮えくり返るような怒りを感じた。朝鮮総連本部の偽装売買をやって、朝鮮総連に手を貸していた緒方重威氏である。

 こんな人物が公安調査庁長官をつとめ、危険な団体に破防法の適用云々と言っていたのだからチャンチャラおかしい。朝鮮総連は公安調査庁の監視団体であり、双方は本来ならば敵対関係にあるはずなのに、これでは八百長の出来レースである。

 それを国民の税金でおこない、あげくに朝鮮総連を手助けするのだから言語道断である。まあ『お笑い公安調査庁』(現代書館)を読んで、公安調査庁のどうしようもない体たらくを見ていたら、さもありなんと思うが、それにしてもヒドすぎる。「売国奴」を絵に描いて、額にいれて、応接間に飾ったような人物である。

 別に僕は緒方重威氏が公安調査庁の元長官だから問題にしているのではない。日本人の中からかような事をする人間が出て来た事に激しい憤りを感じているのだ。公安調査庁の長官だろうが、日弁連の会長だろうが、社民党の党首だろうが、こんな売国行為が許されるはずがない。

 緒方重威氏は「(本部施設は)在日の方々の活動の拠点である」と言って弁解しているが、こんなものは、弁解にもならない。朝鮮総連に所属する連中の“活動”とは何か。我が国へのスパイ活動、政治家・マスコミ界への懐柔工作、日本人拉致の下準備、北朝鮮への不正送金、ミサイル部品の調達……

 そういった“活動”の実態をよく知っていたのは、公安調査庁で長官をつとめた緒方重威氏本人のはずである。それを知りながら、活動の拠点を守るように加担したのは重大な利敵行為であり、日本人への裏切りである。

 18日に東京地裁は朝鮮総連に627億円の返済を命じ、朝鮮総連の代理人も緒方と朝鮮総連との本部施設売買契約を白紙に戻し、登記を朝鮮総連に差し戻した。これによって朝鮮総連本部の差し押さえの可能性が浮上して来た。

 遅きに失した感もあるが、対日有害活動の一大拠点である朝鮮総連を叩き潰し、拉致問題解決をはかるうえでも、前進であろう。本来であれば、朝鮮総連には破壊活動防止法を適用し、関係者を徹底的に厳罰に処するのがあたりまえであるが、その破防法を運用していた長官がこれではどうしようもない。

 先日、松岡農水大臣が自殺した。自らの責任に対して死をもって償ったものである。緒方氏も一片の日本人としての自尊心を持っているならば、見習って自らの出処進退を明確に決めたらいかがだろうか。でなければ朝鮮総連と共に自ら破防法の適用を、身を以て受けるべきであろう。

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by shikisima594 | 2007-06-19 21:21 | 随想・雑記