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静謐な夏を願って
前略

 突然ですが、この皇国史観研究会ブログは一時中断します。といっても、会が解散する訳ではありませんので、くれぐれも誤解なきよう願います。再開の予定は未定です。

 思えば明日は「終戦記念日」です。夏まっさかりで、地中から這い出して来た蝉が鳴くのと同様に、靖国神社をめぐって内外のメディアが喧しく騒ぎ立てるのが、日本の夏の風物詩と化しつつあります。

 我々は靖国神社が政治的駆け引きや外交カードから切り離され、ただただ、心静かに、全ての日本人が靖国神社に祀られた殉国の英霊に、頭をたれる日が来ることを望みます。

 喧噪と混乱と悪意に満ちた夏ではなく、慰霊と鎮魂の静謐な夏を日本民族が迎えられる日が来る事と、このブログを今まで読んでくださっていた読者諸兄の御健康を願って筆をおかせていただきます。

草々

皇国史観研究会ブログ 編集代表 タカユキ
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by shikisima594 | 2007-08-14 21:03 | 告知
私的敷島回想録 6
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 ずいぶん前に卒業された大学の先輩から、「俺たちが居た頃は、大学の周りに4年生ぐらいの先輩や、卒業生の下宿があって、そこを“塾”なんて呼んで、みんなの溜まり場にしてたもんだよ」と聞かされた。

 誰かの下宿に集まって、朝まで酒を飲んで語り明かすのは学生の特権だろう。この先輩などがいらっしゃった当時の国士舘は、サークルごとにそんな「塾」があったそうだ。僕が入学したころは、「塾」と呼ばれるものはなかったが、限りなくそれに近いものは存在していた。

 当時の皇国史観研究会の会長が、大学近くの下宿に一人で住んでいらっしゃったので、よく会員たちが自然とお邪魔していた。そこは「塾」ではなく、家主が戦前の大陸浪人的な気風に傾倒されていた事もあり、「満州」と呼んでいた。

 持ち主不明の物品が散乱し、たまに怪奇現象がおこる部屋で、皇国史観研究会以外にも様々な人間が集まって来て、みんな仲良く鍋をつついて酒を飲む。まさに「王道楽土、五族協和」の満州のようなところであった。朝まで酒を飲んで、真剣な話も、ふざけた話も延々と語り明かした。

 とりあえず、人が集まってする事がなければ、思いつきでいろんな事をやった。突発的に遠出にでかけたり、映画を見たりするのが多かった気がする。映画は『大日本帝国』と『ムルデカ』を一番多く見た。とくに『ムルデカ』はインドネシア国歌を歌えるようになるぐらい見た。

 そんな風に、枠にはまらずに、何でもやって、何でもさせてもらえるのが、僕にとって皇国史観研究会の大きな魅力だった。受動的な人からすれば「何をすればいいのか分からない」「やる事が突発的で行き当りばっかり過ぎる」と批判する人もいるが、主体的な意思があってこそ楽しいのが皇国史観研究会だろう。

 平成17年の夏合宿で関西に行ったが、その時はさして詳細なスケジュールが決められていたわけでもなかった。すると、関西に着いた日のその時間から、甲子園球場で国士舘高校の試合があると知り、すぐに応援に駆けつけた。写真はその時の「皇国史観私設応援団」の写真だ。それぐらいに柔軟さがあった。

 平成16年の冬に、当時まだ一年生の僕などが中心となって壁新聞をはじめた時も、先輩方はとやかく言う事なく、自由にさせてくださった。翌年の夏に壁新聞が潰されてしまった時も、「残念だったが、次を頑張れ」と言ってくれた。

 おかげで平成17年の12月に、このブログが立ち上げられた訳である。たちあげたからには目標をもった。「一年以内に、ブログランキングのトップ10に入り、10万アクセスを超える」というものだった。「無理だ」との声もあったが、僕には出来るとの無根拠な確信があった。

 というのも、僕が一年生だった頃の会長は、何があっても、口癖のように「大丈夫、大丈夫」と言っておられた。僕は何度も「無理だろう」と思ったが、本当に不思議と「大丈夫」だったし、先輩も無事に五体満足で卒業されていかれた。

 この事から、自信をもって取り組めば、だいたいの事は何とかなるような気がしていたし、目標があれば、それに向かって何を成していくべきかが分かるようになってきた。だから、ブログも同様に、目標を達成するためには何をなすべきかを見据えて、それを着々とこなし続けた。

 去年の今ごろは、「富田メモ」報道をやらかした日経を追及していたし、その過程の中で杉田亮毅日経社長と支那の唐家旋国務委員が会談していた事実もつきとめたりした。毎日新聞の在日記者不敬質問の追及もやったし、法政大学の左翼学生弾圧を批判して当の左翼学生から御礼の書き込みを頂戴して驚いたこともあった。

 そんな事を経ながら、なんとか当初の目的であった「一年以内に、ブログランキングのトップ10に入り、10万アクセスを超える」という目標は達成できた。会員全員とても驚いていた。以前にやっていた壁新聞『敷島だより』は週刊で100部で、それを潰されてこのブログを立ち上げるに至ったわけだが、怪我の功名とはまさにこの事である。国士舘の左翼教授の先生、どうもありがとうございました。

 しかし、これでネットの可能性と限界について色々と考えるところもあった。まず、ブログランキングだが、これで順位をあげるには、中国や韓国の批判を書けばあがる事に、なんとも言えない複雑な気持ちであった。確かに中国・朝鮮がケシカランのは当然で、僕らもその思いでやっている。

 だが、ここに我が国の歴史や伝統、皇室の事について書いてもランキングは一向に上がらず、中国・朝鮮を批判したときのみに、ランキングが上がる事に、何とも言えない不安を感じたのである。外国を批判する事で成り立つナショナリズムならば、中国や朝鮮と同様である。

 皇室という万邦無比たる民族の核をいただく日本が、その崇高な御存在を閑却して、外国を罵倒する事のみに血眼になっていたのでは本末転倒であるし、皇国史観研究会の本旨からすれば全く望むものではない。我々が外国を批判するのは、尊皇あっての攘夷であり、攘夷のための攘夷や、自己満足のための攘夷ではない。

 なので、現在では記事ごとにブログランキングへのリンクを貼らなくしている。それはそれでよかったのではないかと思う。ランキングにばかり気をとられて、もっと大切な物を見落としていたような気がするからだ。

 それにしても、ネット言論とは不思議なもので、様々なレッテル貼りもたくさん頂戴して来た。それらを総合すると、僕などは「極左の在日朝鮮人で創価学会信者で統一協会信者で暴力団構成員でヒキコモリのニート」という事になるらしい。なんじゃそりゃ。

 まあそんなネットの負の側面もあったけど、いいところもいっぱいあった。ネットを見て入会希望をちょうだいすることも度々あったし、出版物の注文も多数いただいた。胸迫るような激励の書き込みをいただく度に本当に励まされて来た。これは感謝してもしきれない。

 ネットの可能性は未知だろうし、ネットに限らず、人間は自らの主体的な意思によっていくらでも未知なる可能性を切り開いて行けるのだと感じたのが、皇国史観研究会とネットでの活動だったのではないかと振り返るのである。

 さて、とりとめもなくダラダラと、散文的に書き連ねて来た本連載であるが、これをもって筆を置かせていただきたい。本当はもっと書きたい話や、載っけたい写真がいっぱいあるんだけど、関係者の方々の事情もあるので、これぐらいにしておかねばならない。この連載を読みながら、「あの話はいつ出されるんだろう…」と戦々恐々されていた方々、胸を撫で下ろしていただいて結構ですよ。

 思い返せば四年間の出来事が走馬灯のように駆け巡り、話題と名残は尽きない。長いようであって本当に短かった。後悔もあれば反省もある。しかし、その間に皇国史観研究会から多くの事を学んで、自分自身も大きく変わってきたと、しみじみと実感するのである。

 最後に、皇国史観研究会のますますの発展と、後輩諸兄らの活躍と健闘を心より祈念申し上げて、本連載の締とさせていただきたい。

タカユキ
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by shikisima594 | 2007-08-13 22:56 | 随想・雑記
私的敷島回想録 5
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 最近、後輩が他のサークルに所属する友人から、「皇国史観研究会って大学から優遇されてるんでしょ?」と言われたらしい。しかも、この友人だけではなく、他の友人からも同じような事を言われたという。

 なぜかというと、国士舘大学がいわゆる愛国的な大学であるから、愛国的なサークルである皇国史観研究会は大学から優遇されていると思われているらしいのだ。本当に優遇されていて、そう思われているなら致し方ないが、そうではないのに優遇されていると思われたのでは、どうもスッキリしない。

 僕が実際に体験したり、先輩たちから直接聞いた話から結論すると、優遇など一切されていないのが実情である。優遇されないのは別にいいけど、むしろ逆に冷遇されているぐらいである。代表的な出来事をちょっとだけ書こう。

 八月一日の本連載でも書いたように、僕が入学する前年の平成十五年に国士舘大学鶴川校舎の30号館で、北朝鮮による拉致被害者救出を考えるシンポジウムを開催した。これに学内のゼミやサークルなどが、後援や協賛のかたちをとって、準備に奔走した。

 皇国史観研究会も会場設営、警備、案内に、ブルーリボンの作製と大忙しだったという。ところが、このシンポジウム協賛団体に皇国史観研究会と応援団が名前を連ねているのは不穏当でケシカランから外せと言って来た御人がいたそうな。誰かと思えば、当時の学長だったらしいからビックリ仰天である。

 名前が気に食わないから、働いていても消せというのは、あまりにも人を侮辱した話である。それを学長の地位にある人間が平然とやってきた事を先輩たちから聞かされて、僕は驚くと同時に、国士舘大学に事なかれ主義と横暴が罷り通っている事に、とてつもなく悲しくなった。

 それ以外にも、新入生勧誘ポスターを貼り出すと、ご丁寧に誰かが剥がして回ってくれるのだ。噂では職員か教授だというのだから呆れてしまう。そんな話を聞かされて、入学当初の僕は何とも暗澹たる気分になった。

 さて、そして僕が一年生だった時の平成16年12月1日。サッカー部員らが女子高生に集団わいせつ事件を起こして、大騒ぎになる。サッカー部の寮がある鶴川校舎には連日マスコミが押し掛けて、学内に重苦しい空気が流れた。

 そんな中で、事件から一週間たった12月7日に、大学近辺の住民に大学への不信を抱かせてしまった事を憂いて、学内の有志サークルが集って、近隣住民の不信感を和らげ、国士舘大学への理解を回復しようと、「防犯清掃パトロール」を行うとの話がでた。

 この時、皇国史観研究会は真っ先にこの企画に加わって、実施に向けた会議に僕が出席してきた。僕の手元に当時の趣意書が残っており、それによると学内の武道系サークルやスポーツ系サークルなど、11団体が大同団結した素晴らしい企画だった。

 サッカー部のような事件を起こす連中がいるかと思えば、誰から言われた訳でもないのに、自らの母校にしっかりと誇りを持ち、名誉挽回のために必死に働こうとする学生たちがいることに、僕は何とも言えぬ感動を覚えた。

 ところが、この防犯パトロールは詳細なスケジュールと実施要項が決められながらも、実施されなかった。それは当時の学生部長や、老教授だか理事だかが、「いまの時期にこんな事をすれば世間から穿った見方をされるからヤメろ」とやったらしい。馬鹿げた話である。

 これだけ母校を愛し、誇りにする学生がいる事こそが、何にもまして代え難い大学の財産ではないのか。そうした学生達の純粋な想いを無下につみとるのが教育者のすることか。当時、この企画を考えて実施に向けて頑張っておられた先輩方の悔しさを見て、何とも言葉がなかった。結局、この事件で大学がとった態度とは、事件のほとぼりが覚めるのを待っていただけに思えて仕方がない。

 そして忘れてはいけないのが、この事件に触発されて、僕たちが壁新聞『敷島だより』を創刊した事だ。この時の経緯は本ブログの記事、「『敷島だより』顛末記」に書いてある。この新聞は翌年の七月に廃刊になってしまう。

 その理由は、浅沼事件の山口二矢烈士を取り扱った記事を書いた事と、「韓国の狂科書」と記載した事だ。これに某学部の極左スターリニスト教授が怒り、学生部に怒鳴り込んで、廃刊処分に追い込んでくれたわけである。アカデミズムの場である大学に籍をおきながら、言論弾圧をするとは左翼らしいが、そんな姑息な左翼が国士舘にいる事が残念でならない。

ちなみに、この時の壁新聞の現物は、『敷島だより』詰め合わせとして販売しているので、興味のある方は買っていただければ幸いである。

 さらに、この平成17年に、もう一つ忘れられない事件があった。国士舘大学世田谷校舎では秋に楓門祭が行われる。その時、皇国史観研究会は戦後60周年ということもあり、「大東亜戦争の真実」と題して展示をおこなった。

 その時、学園祭のパンフレットに掲載した僕たちの企画紹介文に「待った」が掛かった。相手は学生部だった。何人かが学生部に出向いて理由を聞いた。すると、「中国や韓国の留学生を刺激するからヤメてほしい」という。もはや呆然としてしまった。

 それが国士舘大学の言う事か。いや、それ以上に大学という機関に関わる者の言う事か。もちろん、「思想、表現の自由は憲法に定められている」と左翼ばりに反論した。ところが何を言っても「留学生が」の一点張りで、あげくに「学園祭での展示を出来なくする」と言って来た。この瞬間、国士舘はもう死んでいるのではないかとすら思ってしまった。

 そんなこんなで、泣く泣く文章の訂正に応じて、学園祭にこぎつけた。しかし、このボツにされた企画紹介文は、パンフレットには掲載せずに、ビラに印刷して学内に貼り出すことが出来たから良かったとするか。

 ちなみに文面は以下の通りである。

「『太平洋戦争は日本がアジア諸国に侵略して、散々ヒドい事をした挙句に負けた悪い戦争』という歴史観に、戦後六十年の今年、我々、皇国史観研究会が、全力でツッコミを入れ、大東亜戦争の真実と歴史的意義を明らかにします。乞う御期待!」

 この文面のどこに問題があるのかは、読む人次第だろうが、少なくともこれぐらいの表現も認めないと言うのは大学として不健全ではないか。しかも、全学生の中で一割程度しかいない留学生に気兼ねしてというのだから情けなさ過ぎる。じゃあ残り九割の日本人学生の立場はどうなるのか。

 と、散々に母校のバクロっぽい話を書いてしまったが、これも全て母校国士舘大学を心から愛するが故のことである。ご容赦いただきたい。かつて高杉晋作は「国を滅ぼすは外患にあらず、内憂にあり」と喝破されたが、僕は大学を滅ぼすのは少子化にあらず、事なかれ主義と魂なき営利至上主義にあり、と言いたい。

 写真は平成17年に皇国史観研究会をはじめ、国士舘の有志学生らで8月15日の靖国神社に参拝した時に撮ったものである。ここに写っている国防色の旗が皇国史観研究会の会旗である。

タカユキ
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by shikisima594 | 2007-08-11 22:45 | 随想・雑記
第二十三回國士舘皇居勤労奉仕に参加
f0018981_21345615.jpg 今年も8月5日から9日まで、毎年恒例の、国士舘大学が行っている皇居勤労奉仕に参加してきた。今回の参加者は全員で20名だった。以下に簡単な報告を掲載します。

8月5日(日曜日)
 国士舘大学柴田会館に集合して結団式。国民儀礼で皇居遥拝、国歌斉唱、団長挨拶に続いて舘歌斉唱で9日まで共に奉仕に励む事を誓う。
 夕食は国士舘大学の地下食堂で。ここは朝昼晩に油たっぷりの揚げもの定食がドッサリ出て来る。これが皇居勤労奉仕最大唯一の憂鬱である。もちろん学食のBGMは軍歌である。
 夜は皇室と日本のあり方について勉強会。主に教育勅語の精神と意義について。

8月6日(月曜日)
 本日から皇居に参内して勤労奉仕に。奉仕団体の集合場所である窓明館では、朝8時15分の時報にあわせて原爆犠牲者に黙祷。作業は落ち葉を掃き集める。雲が極端に少ない炎天下で瞬く間に汗が噴き出す。
 それにしても、皇居を散策して江戸時代からの建物など、いくつもの建物があったけど、その多くが素人目にも痛んで老朽化している事がうかがわれた。予算の問題もあるのかもしれないが、我が国の 天皇陛下が住まわれる場所が粗末あつかわれ、首相官邸は豪奢につくられているのでは、かつての武家専断の時代を彷彿とさせ、実に心さびしい思いがする。
 奉仕を終えて、宿舎に戻ってからは、OB先輩から歴史認識をめぐる講義、映画『君にめぐりあいたい』を鑑賞。

8月7日(火曜日)
 今日は一般参賀で多くの国民が参る長和殿周辺の清掃奉仕。清掃奉仕は高齢方が多いためか、溝の中など、手の届きにくい場所は落ち葉や泥が堆積するに任せている状態だったので、それを一生懸命にかき出す。
 午後、 天皇皇后両陛下より御会釈をたまわる。なんど拝してもかたじけない。初参加の諸君らも目に涙を浮かべていた。僕もそれを見て目頭が熱くなる。 戦後の御巡幸もかくのごとしであったのかと思わずにはいられない。
 とりわけ、陛下が仰られた「いつもありがとう」との御言葉には、言い表せない感動をいだく。この「いつも」という形容詞がつくまでにどれほどの先輩方の努力と信念の積み重ねがあったことだろう。その積み重ねの絆の果てに僕らは立たせていただいている。
 夜、宿舎に戻って映画『日本のいちばん長い日』を鑑賞する。長いし重苦しい映画だ。国家の総力と世界の運命を賭けた戦争を終わらせる事にこれほどの苦悩があるのだ。
 彼らの苦悩はどこから出たものかを、上映中にずっと考える。すると、昼間に玉音から感じた“絆”に思い至った。先人達から連綿と受け継いで来た膨大な絆、友人や肉親、同志たちとのかけがえのない絆。それをしっかりと背負っているからこそ、彼らは苦悩し葛藤したのではないかと思う。

8月8日(水曜日)
 今日の作業は皇居のお堀まわりの草むしり。蝉の声がいっそう大きく聞こえるぐらいに日差しが強かった。
 作業を終えて、御下賜品をいただく。
 宿舎に戻ってから、みなで皇居勤労奉仕の感想を和歌にしたためる。

8月9日(木曜日)
 今日は赤坂の東宮御所で御奉仕。門の近くの落ち葉拾いを続ける。今日はソ連が日ソ中立条約を破り、侵攻して来た日。そしてアメリカが長崎に原爆を投下した日である。 なので色々と思う所もあった。
 短い御奉仕もおわり、皇太子殿下の御会釈をたまわる。我々のためにわざわざ時間を割いていただき、かたじけない。その後、靖国神社に昇殿参拝し、心静かに殉国の英霊に感謝の誠を捧げる。
 宿舎に戻って解団式を行い、短くも大変充実した皇居勤労奉仕が終わった。ともに参加された皆様、または物心両面から勤労奉仕をご支援くださった皆様、本当にありがとうございました。
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by shikisima594 | 2007-08-09 21:42 | 活動報告
広島・長崎を忘れない
 私たちは「夏といえば」の問いかけに多くの答えを持ち合わせている。海、プール、スイカ、花火、夏祭り…そんな楽しく、懐かしく、美しいものばかりが散りばめられたのが、日本民族にとっての夏の風景であった。昭和二十年八月までは。

 昭和二十年八月六日には広島に、九日には長崎に、それぞれアメリカが原子爆弾を投下し、多数の無辜の民、日本人同胞を殺傷して以来、日本の夏は心踊る夏と、慰霊と鎮魂と消し難い屈辱をかかえた夏が同居する状態になってしまった。

 いまさら原爆投下の非道さは言うまでもあるまい。しかし、それと並ぶぐらいヒドいのが、原爆投下をめぐる我が国の戦後体制そのものである。先般、防衛大臣であった久間章生が「原爆投下はしょうがなかった」と発言し、大臣を辞任したが、これなどは日本民族に対する背信的暴言であり、断じて許せない。

 ところが、この発言と同様の発言はいくつも繰り返されている。週刊現代8月11日号は、創価学会の池田大作名誉会長が「原爆投下は創価学会を弾圧した日本への報い」と発言していた事を報じている。久間発言を絶対許せないと糾弾していた公明党の方々には是非とも、この発言主を徹底糾弾していただきたい。

 さらには広島の原爆資料館で、原爆の悲惨さを訴えるはずのスティーブン・リーパー理事長は「原爆投下を『日本の植民地支配から解放した』と肯定する考えが根強いアジアの声に触れながら議論を深め、多民族が共感、納得できる施設にしたい」と発言している。なぜこのようなアメリカ人が原爆資料館の責任者になっているのか疑問はつきないが、アメリカ人の認識を出るものではなく、その視点は我々のものではない。

 ところが、日本人で、ましてや「保守派」を自称する方の中には、なぜかこうしたアメリカ人と同様の見解を持つ方も少なくない。「親米保守派」を自任する、杏林大学の田久保忠衛教授は産経新聞の古森義久記者との対談本『反米論を撃つ』の中で次のように発言している。

「日本の徹底抗戦の雰囲気の中で、原爆が落ちなかったならば、ライシャワーが言っているように、 『原爆がなければ日本の軍部が徹底抗戦を続けて、米軍は数十万の死傷者を出したであろうし、日本側も戦死者以外に数百万の非戦闘員が餓死し、日本という国は事実上破壊されていたところであろう』 この認識には僕も同感できるところがある。」(前掲書157〜158頁)

 つまりは、原爆投下はしょうがなかったというもので、久間発言と全く軌を一にし、より悪質なものと言わねばならない。かような者は保守派ではなく、売国奴であろう。

 さて、ここまで考えて、広島の平和記念公園にある原爆慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と書かれているが、この主語はいったい誰なのだろう。原爆を落したのはアメリカ人であるが、碑をつくったのは日本人である。

 東京裁判の判事であった、ラダ・ビノード・パール判事は戦後、広島を訪れて原爆慰霊碑の碑文を読んで「原爆を落としたのは日本人ではない。落としたアメリカ人の手は、まだ清められていない」と発言したと言う。アメリカは今にいたるまで原爆投下を謝罪していない。それどころか日本に対して「従軍慰安婦非難決議」を突き付けて来る。

 いくら「原爆を忘れない」、「ヒロシマ・ナガサキを忘れない」と言ったところで、いつまでも卑屈に戦時中の日本が悪であった、アメリカに理があったと言っていたのでは、原爆投下容認の認識を抜け出す事は出来ず、アメリカによって虐殺された同胞たちにも、世界に対しても我々は永遠に顔を向けることができないのである。

 広島・長崎を忘れない。何度も繰り返されてきながらも、多くのねじれとひずみを抱えたこの言葉を、我々はもう一度かみしめねばならない。
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by shikisima594 | 2007-08-06 08:15 | 随想・雑記
「右傾化」してます?
 先日の朝方、ぐっすり寝ていると電話が鳴った。知らない番号だけど出てみたら、某有名マスコミだった。うーん、マスコミ業界は別に就職希望を出していないのに、リクルートに来たか、というわけはなく、知人の紹介で僕を取材したいというのだ。

 聞いてみると、「いまの日本が右傾化していると思うのですが、そうした現象とその背景にスポットを当てたモノを描き出すことによってですね…」と一気にコンセプトを話しはじめる。大学に入学して以来、この手の話を受けるのは何本目だろうか。

 国内外あわせて十回近く取材やら何やらを受けて来た。全てに共通するのは「いまの日本が右傾化している」という問題意識である。電話口の担当者は企画を一通り話して、おもむろに「いまの日本が右傾化していると言われていますが、どう思いますか?」と聞いて来た。

 何度も聞かれ続けて来た質問だ。大学一年生のころは自分の希望的観測も交えて「うーん、そうですねぇ、いい意味で右傾化してるんじゃないですかねぇ」などと無責任でノンキに答えていたけど、いまはこの問いに明確に「否」と答える。

 実際に自分の周囲を見回す。皇国史観研究会の会員数は冷戦崩壊前後の結成から、だいたい10人前後で推移してきた。それは「右傾化」と言われる今でも変わらない。皇国史観研究会に限らず、他大学の民族派系サークルも同様だし、実際に社会で活動する組織も同様だ。活動ヘの参加人員は平行線か、微減ぐらいだ。

 なので僕が率直に「右傾化なんてしてませんよ」と答えたら、電話口の担当者氏は随分と焦ったように、「いや、それは違うと思いますよ!なぜならですね!」とまくしたてて来る。こっちは聞かれた事に答えただけだし、そのうえ寝てたんだからイイカゲンにしろと言いたかった。どうも彼らマスコミ的には日本が「不健全」に「右傾化」していないと困るようだ。変な話だ。

 では、マスコミが「右傾化」の根拠に挙げるものは何か。概要以下の通りだ。
・小泉前総理、安倍総理の支持率が高い。
・8月15日に多くの国民が靖国神社に参拝するようになった。
・憲法改正議論が高まって来た。
・対北朝鮮強硬世論が盛り上がって来た。
・かつての左翼運動が力を失った。

 まず、小泉&安倍の支持率の高さだが、これを「右傾化」と捉えて、同様に「右傾化」していると定義した僕のところに電話してくるのは、あまりにもお門違いだ。なぜなら僕は小泉&安倍はおろか自民党すら支持していない。それらの人気が高まるのが「右傾化」というならば、あまりに短絡に過ぎる。

 8月15日の靖国神社についても同様だ。靖国神社には先の大東亜戦争の戦没者が数多く祀られているが、別に8月15日にこだわる必要はない。あえてそこにこだわって、政治的パフォーマンスをやったのが小泉前総理であるだけだ。しかも、村山談話継承と言う屈辱的な歴史観を持って。

 さらに、憲法改正論議にしても、中東戦略が行き詰まりを見せたアメリカが、自らの都合に合わせて日本を利用する魂胆でなそうとするもので、議論が9条のみに集中している。かつてアメリカの都合で押し付けられた憲法が、いま再びアメリカの都合で変えられようとしている。

 それはおよそ独立国家の態度ではなく、戦後体制を強化して、アメリカの従順なる家来と化す現象に過ぎないではないか。左翼運動の衰退もそうだ。意外に思われるかもしれないが。僕は左翼運動に一定の評価をしている。

 いかなる時代にあっても人民の権益に立脚し、伝統的価値観と資本主義的圧搾に対抗して、反体制の反骨精神を貫くものを左翼運動と定義した場合、それはいかなる時代でも必要であると思うからだ。

 ところが、そうした精神が衰退したのは、戦後の左翼運動が人民に届く言葉を喪失し、単なる労働貴族としてのノスタルジックな既得権益集団になり果てた事によるところが大きいが、それ以上に現代の国民が反体制的な反骨精神を失い、「小泉劇場」などの体制側政治ショーに踊らされているだけではないか。

 そのような現象が「右傾化」というならば、僕はかような「右傾化」には断固として反対する。なぜならその「右傾化」の先にあるのは、我が国にとって最も陰惨で不幸な形での「全体主義」と、没落ではあるまいか。

 今回のように僕に電話してきたマスコミにしてもそうだが「右傾化」の実態を、いま日本で進行している前述のような現象と、我々の父祖が命を賭けて実現しようとした日本と余りにも乱暴に混同しているが、我々はその実態が大きく異なる事実に気付かなければならない。

 そこにおいてこそ始めて、マスコミが定義したり、現体制が押し進める浅薄な「右傾化」とは明らかに違った、真の日本再生がはじまるのではあるまいか。
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by shikisima594 | 2007-08-03 23:43 | 随想・雑記
私的敷島回想録 4
f0018981_15491520.jpg 大学のサークルにはスポーツ系、文化系、武道系という分類がされる。じゃあ皇国史観研究会は何系なの、と思われるだろう。おそらく大勢の方が文化系サークルだと思われるはずだ。

 それで間違いではないが、もっと正確にいえば民族派系サークルである。7月25日の本連載に、国士舘大学OBのもみじ氏がコメントを寄せてくださっているが、国士舘大学には國士拳千唐會、國士拳友會、國防部、大日本國心會、大日本國友會、大日本昭和維新會、日本民族研究会といった錚々たる民族派系サークルがひしめいていた。

 これは何も当時の国士舘のみの現象ではなく、昭和30年代後半から40年代にかけて、左翼学生運動のうねりが全国の大学で高まって来るのに対抗する形で、戦後の民族派学生運動が誕生し、日本学生同盟、日本学生会議、全国学生自治体連絡協議会などの巨大な民族派系学生団体が結成される。

 当時の資料にあたっても、東京大学、早稲田大学、拓殖大学、日本大学、國學院大學、東洋大学、桜美林大学、駒澤大学といった首都圏の多くの大学にも民族派系サークルと呼ばれるものが誕生し、その一部は後の新右翼と呼ばれる新勢力を形成していく。

 しかし、ソ連が崩壊し、冷戦構造が終わりを迎え、各大学で燎原の火のように燃え広がっていた新左翼学生運動が風前の灯火にまで後退してしまうと、「アンチ左翼」「反共」の側面が強かった民族派学生運動も同様に、形骸化し活力を失い衰退していく。

 都内の有名大学や中堅大学では珍しくなかった民族派系サークルは、昭和から平成の御代への代替わりの狭間で、次々に消滅していってしまう。その流れとすれ違うように、昭和58年に結成されたのが皇国史観研究会である。

 反共やアンチ左翼に終止するのではなく、あくまでも日本はいかなる国であり、そこに生を受けた我々はいかにあるべきかを、硬直して形骸化・自己目的化した運動や議論ではなく、後輩や先輩の別なく自由に切磋琢磨していける集団を目指した。創設にかかわった先生によれば「歌って踊れる民族派学生団体」との事だった。

 前置きが長くなったが、そんな経緯で結成された皇国史観研究会。僕が入った頃には国士舘大学唯一の民族派学生サークルで、学内の左翼教授や日和見教授たちからは、かなり煙たがられる存在だった。まあそっちの方がオモシロい。とことんやったろうじゃないかと思ったものだ。

 民族派系に限らず、左翼系もそうだが、おおよそ思想をぶち上げるサークルは、どこかの系列にある。既成の新左翼セクトだったり、宗教だったり、既存の民族派団体だったり、なにがしかの“母体”を持っているものだった。僕もそれを少し覚悟していたが、皇国史観研究会には“母体”はなかった。あくまでも学生が主体で、セクト主義とは無縁の非常に珍しいタイプのサークルだった。

 僕が入会する二年前の平成14年9月17日。あの歴史的な日朝首脳会談の席上、北朝鮮の金正日が拉致問題を認め、同年10月24日には拉致被害者5名が帰国を果たした。この時から拉致被害者救出運動が盛り上がっていた。それは東京の民族派学生や、保守系学生においても例外ではなかった。

 拉致被害者救出集会が何度も開かれ、そこに参加した学生同士のネットワークが出来て、互いに刺激を与えあって、活発な運動が繰り広げられるようになる。平成15年5月14日、早稲田大学で拉致被害者家族などの関係者らを招いて拉致問題を考える集会が開かれ、これに国士舘大学の有志学生らが提携した。

 当日は国士舘大学から皇国史観研究会や武道系サークル、応援団が警備として参加した。この時のことを革マル派系の早稲田大学新聞が「会場警備として国士舘大学の体育会系学生がにらみをきかせるなど、物々しいムードにつつまれた。」と書いているから何だか笑ってしまう。

 この試みは国士舘大学でも取り組まれて、同年に国士舘大学鶴川校舎の30号館大教室に横田夫妻を招いて講演会をする。この時は立ち見もでて、会場に人が入り切らない大盛況になったというのだからスゴい。

 ちなみに、このとき、皇国史観研究会の先輩たちが毎日のように学校が終わったら、ハサミとホッチキスを手に、ブルーリボンづくりの内職に励んでいた事はあまり知られていない、舞台の裏話であるが、この平成15年頃に東京中に出回った数万個ものブルーリボンの多くが、「メイド・イン・コクシカン」である事実を書いておきたい。

 こうした拉致被害者救出運動の一番先頭に立っていたのが、衆議院議員の西村真悟代議士であった。その関係からか、こうした運動に加わった学生の多くが西村氏のもとに集って、勉強会や運動に関係していく事になる。皇国史観研究会の先輩も何人か参加して、そこから広い交流を得て、活動の幅を広げて行く。

 そうした動きの中で、かつての全国学生自治体連絡協議会の流れを汲む、首都圏学生文化会議が靖国神社で「大東亜戦争戦歿全学徒慰霊祭」というのを催しており、ちょうど平成15年で学徒出陣六十周年で、慰霊祭自体も第二十回という記念すべきものであったので、国士舘大学から皇国史観研究会をはじめ、有志学生ら約25名が参列して、共にお手伝いをさせていただいた。

 このように皇国史観研究会の活動は、既存の学生運動的な党派主義とは全く無縁だった事が今更になって思われるのである。写真は、撮影したY君の指だか何かが写りこんでしまっているが、翌年の「第二十一回大東亜戦争戦歿全学徒慰霊祭」が終わった後、靖国神社拝殿前にて、当時の皇国史観研究会一同で撮影した貴重な一枚。

タカユキ
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by shikisima594 | 2007-08-01 23:14 | 随想・雑記