みたままつりのお知らせ
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 今年も靖国神社で、みたままつりが行われます。戦後、遺族の人々がお盆にちなんで英霊を慰めるためにはじめたものが定着し、いまでも毎年行われています。境内に飾られた約30000個の提灯が織りなす光の幻想的な景色には毎回圧倒されるものがあります。

 今月の13日からはじまり、16日まで毎日午後六時から行われます。境内に多数の露店が軒を連ね、大勢の人々で賑わいます。さらに、みたままつり期間中は様々な催しも行われます。初日の13日には吹奏楽パレードと日本歌手協会有志による奉納特別講演があり、翌14日には、つのだ☆ひろ氏の奉納特別野外コンサートがあり、15日には神輿振りがあります。

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 ちなみに、今年も私たち皇国史観研究会は、提灯を献灯させていただきました。お時間のある方は探してみてください。ひょっとしたら、他にも皆さんのご存知の方々のお名前も見えるかもしれません。

 我々が楽しいと感じるものは、恐らくは英霊の方々も喜ばれることだと思う。日頃から靖国神社に縁がある人にとっては、いつもとは違う靖国神社を楽しみ、靖国神社に行った事がない人も、今年の夏祭りを靖国神社で過ごされてみてはいかがだろうか。

靖国神社みたままつりのご案内


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# by shikisima594 | 2007-07-10 02:08 | 告知
「日本史」なるものと大学と私
 つれづれなるままに。

 私が籍を置く大学、国士舘大学は各種学部学科を揃えている。その中で専攻を置くのは文学部だけだ(他は主に学科)。そして勿論国史を教える専攻がある。以前までは多くの大学の様に「国史学」専攻と呼んでいた。現在では「考古・日本史学専攻」という長い名前へと変更している。

 私は『国士舘大学 大学案内2004』という大学発行の真っ赤な表紙のパンフレットを今も持っている。「平成十五年度国士舘大学入試結果」の「国史学専攻」の欄に蛍光マーカーを引っ張っていたり、資料請求のはがきが無かったり、鶴川校舎までの地図が描いてあったページが切り取られていたり、色々懐かしい。私は国士舘大学に入りたくて入ったおそらくこの大学の中の少数一派である。

 その中で「文学部」の項(六十五項)を見てみると
「平成16年4月名称変更 ●国史学専攻→考古・日本史学専攻」
とあった。名称の変更は割と最近の事の様だ。

 私はこの「考古・日本史学専攻」という名称を目にする度に疑問が浮かぶ。何故「国史学専攻」ではいけなかったのだろうか。平成十六年から授業内容が分かり易い様にという配慮から、多数の授業科目名が変更されている。おそらく専攻名の変更も分かり易さを重視しての事なのだろう。しかしもしその通りといえども文学部は妙な事をしたものである。

 私達日本人が「日本の歴史を学ぶ」という行為をするとして、その手解きを受ける科目名は何と言えば相応しいだろうか?偏に歴史といっても現在では民衆史・地域史とその多岐に渡って細分化しているのは承知だが、それらは綜合して日本国内に起きている事をその範疇としている。日本国内でそれらの事が展開しているのである。

 自国の歴史を学ぶのであるならば、それら細分化された各歴史を綜合するカテゴリー名として「国史学」と呼んで何ら問題は無いと思う。


 然るに「国史学」を「考古・日本史学」と改めた。私が思うに「国史学」を「日本史」と変える事が出来るのは、自身の帰属意識の問題が背後にあるのではないだろうか。日本人として「国史学」を学ぶとは即ち日本の歴史を学ぶことであり、「国史学」の「国」の字は日本国を指すに他ならない。

 しかしちょっと考えてみるとこの考えが成り立つにはまず、自身が日本というところに依って立っている事が必要である。私は日本という国に生まれ育ち、その国に属しているというところまで来て「国史学」という学問名を見た時、初めて「国」の字は「日本国」を指すと理解できる。


 海外に於ける科目名にとんと疎いのが残念である。アメリカ人は自国の歴史を学ぶ科目を何と呼んでいるのだろうか。American historyなのだろうか。もし彼等の国に「国史学」に該当する英単語があったなら彼らにとって「国」はきっとアメリカを指すのであって日本ではないはずである。
 全く余談だがエキサイト翻訳で「国史」を英訳したら「Japanese history」と出てきた。エキサイトも「国史」の「国」の字を米国でも英国でもなく「日本国」を指すと了解している。うん、誠に素晴らしい帰属意識であーる!(笑)


 ・・・そうそう、帰属意識である。「日本史」と書くと私は違和感を覚えるのである。「国史」というとちゃんと地に足が着いている感じがする。「日本史」というと、自身から”日本人”を引き剥がされ、どこか遠く、暗く、宇宙の様な場所に放り出されて、その場所から他の国と比較してやっと「日本史」を見出すといった様な感じがするのである。そこでは自身と日本の関係は一体ではない。隔絶している。宇宙に浮かんだ私と日本の関係は対等以上にあり、「日本史」は私の手中にある。


 「日本史」という名称は自身から日本人を引き剥がし、自身と「日本」の関係を引き剥がす感覚である。「日本史」なるものはアメリカ史等と比較して出てくる一カテゴリーに過ぎない。私は二千六百六十余年の歴史を有する日本の歴史と自らが対等以上の関係にあるという尊大な考え方は無いし、日本の歴史を手中でもてあそぼうという軽薄な考えも持たない。歴史とは人智を超えたものであって畏怖するもであって自身と一体であると考える。


 国史からその受け継がれる精神を積極的に紡ぎだし、日本とは何ぞ、日本人とは何ぞと考える私には不快な表現ですらある。日本人は日本の歴史の中に学び生きて初めて日本人となる。日本の歴史の中に学び生きるという帰属意識がまず大切なのである。
私に言わせるならば日本の歴史の表現は「日本史」で表されるのではなく「国史」で十分である。


 こう考えていると国士舘も何となく寂しいものがある。世間様が現在の国士舘をどの様に捉えていらっしゃるかは別として、在学生として申し上げるならば全く普通の大学である。押忍の連呼も無く紀元節奉祝行進も無く蛇腹率(蛇腹を着用している人の割合というものを勝手に名付けた)も低下しているし精神訓話なんぞ存在しない。普通の格好をした学生が闊歩して生活を送っている。
 
 今私が眺めている懐かしの大学パンフレットも思えば昔の国士舘の話なんぞ載っていない。一生懸命普通の大学になりたがっている。こじつけだろうが私には「国史」→「日本史」の変更も普通の大学への退化の一傾向に写るのである。(入学者を呼び込もうとする大学の努力も分からぬでもないが)


 先に述べた様に私は国士舘に入りたくて入った変わり者である。
勿論国士舘が昔の(私の言う昔とは「国士舘の精神とは即ち、殉国の精神である」と言い切った国士舘創立者柴田徳次郎先生の精神が行き渡っている時代である)国士舘では無い事は入学以前から重々承知していた事ではあるがその事態に直面すると寂しい。(私は精神を忘却し形骸化した国士舘も“武勇伝”なるものを作る国士舘も特に望んでおりません念の為)

 しかし幸いにもこの大学の中には「皇国史観研究会」なる大学公認サークルが存在していた。入会した私は会の中で先輩同期後輩から様々な事を学ばせてもらった。

 現実の国士舘にやや寂しさを感じた私は「大学とは自分で創るものだ。よし、自分の為の大学を創ろう!」と思った。友人と冗談話をし、授業が終われば図書館で読書をし、会で議論し家路の電車で考えを巡らせた。

 そういった生活の中で私は日本とは何ぞ、日本人とは何ぞ、という事をかたつむり的理解速度で学んできた。こうする事で私の通う大学は高校の延長線でもなく“就職予備校”でもなく普通の大学でもない(笑)、思想し行動する国士を生み出す為の大学になっていったと思う。


 「うむ、自分で大学を“創り上げた”ぞ、立派立派。」
などと考えてもみたが何の事は無い、私は自分の中に昔の国士舘を復活させただけなのだ。

誠にとりとめの無い話でありました。


彩の國
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# by shikisima594 | 2007-07-08 23:41 | 随想・雑記
『拒否できない日本』
f0018981_2265571.jpg 最近の日本が変わって来ている。新聞やテレビの見出しを拾うだけでも、その変貌の急速さを実感せずにはいられない。規制緩和、IT業界・人材派遣業かの急成長、郵政民営化、商法大改正(国際会計基準の導入)、法科大学院の大幅な設置……

 これらの“改革”をマスコミは盛んに、さもあたりまえのように報じているが、これらの背景には全然と言っていいほど、スポットをあてようとしない。というのも、実はこれらの“改革”には全て「元ネタ」が存在する。

 その「元ネタ」とは、アメリカ政府が毎年、日本政府に対して突き付けてくる「年次改革要望書」である。本書は、この「年次改革要望書」の実態と、アメリカのドス黒い魂胆を詳細に追及した本である。

 「年次改革要望書」には、日本人の伝統文化・慣習に対する配慮も、生命、財産への思慮も全く見られない。あるのは露骨なまでのアメリカへの利権誘導である。近年、日本に急激に侵出してきている外資系企業や、アメリカのハゲタカファンドの露払いが、この「年次改革要望書」である。

 読み進めれば読み進めるほど、この「年次改革要望書」に政治家も、マスコミも、官僚たちも口をつぐんでいる現状に薄ら寒い恐ろしさを抱かずにはいられなかった。言われるがままに、好き勝手に人の国を改造して、いったい日本は誰のものなのか。アメリカの植民地なのか。

 親米派とされる人々は、口を揃えて「アメリカには二つのアメリカがある。反日の民主党アメリカと親日の共和党アメリカがある。だから日本は親日の共和党と仲良くすればいい」というのだ。それはもはや幻想にすぎない。

 なぜならば、この堂々とした屈辱的内政干渉の「年次改革要望書」は平成5年に当時の宮沢首相と民主党のクリントン大統領の間で締結され、現在では共和党のブッシュ政権により強化された形で引き継がれているのだ。共和党も民主党もない。アメリカはアメリカということだ。

 「年次改革要望書」の内容は、規制緩和、行政改革、審議会行政、情報公開、独占禁止法、公正取引委員会、入札制度、業界慣行、民事訴訟制度、農業、自動車、建築材料、流通、エネルギー、金融、投資、弁護士業、医薬・医療、情報通信、などなど、トンでもなく多岐にわたる。

 それら全てが「グローバル化」の名の下に「アメリカ化」させられているのだ。かつて160年前にカール・マルクスが「ブルジョアジーは自分に似せて世界を創造する」と指摘したが、いまや日本は拝金主義の狂信国家アメリカに、すっかり改造され尽くそうとしている。

 つらつら考えてみる。「年次改革要望書」の“オチ”とは何だろうか?
 それは、「Japanの合衆国への編入」ではないのか。
 アメリカ国旗の星の数は、建国以来、増え続けてきた。それはアメリカの帝国主義的膨張を象徴している。日本がそこに新たな星として加えられてもいいのか。

 そうなってからでは遅いのだ。本書がより多くの各界各層の日本人に読まれ、アメリカの日本改造を食い止めなければならない。

タカユキ

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# by shikisima594 | 2007-07-06 22:39 | 読書録
政策論のすすめ
 昔、当時の西洋の啓蒙主義に刺激された福沢諭吉は、儒学をほとんど否定してしまった。彼の著書『学問のすすめ』では、今日における学問とは違った意味での「学問」が使われている。
 広く知られているとおり、その「学問」というのは実生活に役立つ方法としての学問であった。彼は、ほとんど神学と化した無意味な政治論であった儒学という学問領域に嫌気がさしたらしく、修めたそれをけなし、実学を学んだという。

 政策論なき学問は無駄であり、学問の無い政策論は夢のようなものに過ぎない。われわれは、これまで理念に偏りすぎ、又それさえも、現実にどれだけ言及できるものか、具体的な事例を挙げて考えなかった。これは、わが会や、この思想潮流全体よりも、もっと大きなものを捉える。

 なぜ日本における多くの経済論や文化論は、西洋とは対照的に、実体の無い、空虚な神学論争の呈を晒したのか。この問題に関して、極論ではあるかもしれないが、私は核心を付いた指摘が出来ると思う。それとは、日本には欧州のごとき政治的経済的不安が少なく、特に戦後は、諸外国に比べてほとんど問題の無い良好な状態であったのである。少なくとも、普通の日常という安定した生活が、ほとんどの人に保障されていた。

 だが日本人は、この平穏を自ら打ち砕いた。空虚な希望にみちた民衆の躍動は、戦争で散ってくれた多くの犠牲と引き換えに成長した、経済的中流層主体の安定した国民経済に、今や自ら第三世界並みの悲惨な経済状況を招きいれた。世界最高レベルの経済的上流層は、この先十数年は、世界経済の植民地化をはかるアメリカの超企業におもねって生きてゆくことが出来るかもしれないが、それはさしずめ、現地民の反感を一身に受けるべく仕向けられた、植民地マレーのシナ系人のごときものに過ぎない。しかも、自己責任やアメリカンドリームという思想装置が長く支持されるほど、日本人の思考が理念的であるとは全く考えられない。

 この様な危機が国内にあるのだから、我々はもはや、国体思想とか伝統を抑えたくらいでは、
大衆の支持と国体護持はつとまらなくなるものと覚悟する他無いだろう。

ムネカミ

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# by shikisima594 | 2007-07-04 17:40
久間暴言を糺せ!
 f0018981_1374380.jpg 「米国はソ連が日本を占領しないよう原爆を落とした。無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったという頭の整理で、今しょうがないなと思っている」

 これはアメリカ人の発言かと思ってしまった。およそ日本人の発言とは思えない。ところが、これが我が国の現役防衛大臣である久間章生氏(写真)のものであるというのだから、呆れてしまう。原爆投下が仕方ないと認識しているような人物が防衛大臣で、どうして我が国の国防が盤石たりえるのか。

 我が国の国民一人、財産一円、領土の一歩といえでも、断じて死守する責任を負うのが防衛大臣である。その防衛大臣が、アメリカによる三十万人にも及ぶ日本人無差別虐殺を容認するが如き発言をするのは断じて許し難い。

 この発言は原爆投下を容認するのみではなく、先の戦争の実態を否定し、「正義」をアメリカ側に据える意味合いも含ませているから、現職議員の発言としても更に悪質である。失言ではなく、暴言である。

 さすがに今回の久間暴言は、マスコミの格好の餌食となり、多くのメディアが食いついているが、どこの報道も通り一辺倒の安易な言説に終始するにとどまっていたように見えてならない。「久間氏の発言はよくない。被爆者の方も怒っている」と報じるのみである。

 原爆を投下したアメリカに正義はあったのか、その意図はなんだったのか、というところにまで論及する者が少ない。さらには、アメリカに「原爆投下謝罪要求決議」を日本政府がとるべきであると主張するマスコミは無い。

 久間氏の原爆容認暴言はもちろん問題である。しかし、それは「原爆投下が許せない」という前提の上で成り立つ話だ。ならば、久間暴言を批判する轟々たる声の中で、アメリカによる原爆投下に対して、「原爆投下謝罪要求決議」すべきであると論をすすめる者がいないのかと不思議でならない。

 ここにこそ、今回の久間暴言の深い問題があるのではないか。実はこの発言は久間氏だけの持論ではなく、いわゆる親米系の保守派からも呈されている。親米保守派で杏林大学の田久保忠衛教授は、産経新聞の古森義久記者との対談本『反米論を撃つ』の中で、

「日本の徹底抗戦の雰囲気の中で、原爆が落ちなかったならば、ライシャワーが言っているように、 『原爆がなければ日本の軍部が徹底抗戦を続けて、米軍は数十万の死傷者を出したであろうし、日本側も戦死者以外に数百万の非戦闘員が餓死し、日本という国は事実上破壊されていたところであろう』 この認識には僕も同感できるところがある。」(157〜158頁)

 今回の久間暴言と趣を同じくする暴言であるが、このような認識をもった親米保守派は少なからずいる。逆に、原爆投下は許せないけど、日本も中国や朝鮮で悪い事をしていたから…といって、アメリカの原爆投下に期せずして免罪符を与える左派連中もいる。

 「大東亜戦争の正義」を叫びつつも、原爆投下を容認する親米保守派。原爆投下を批判しつつも、戦前の日本をこき下ろす事によって原爆投下を弁護する左派。このねじれ現象の生み出したものこそが、今回の久間暴言を取り巻く状況である。

 久間大臣を責める事ができても、アメリカを責めることが出来ない。いったい何を恐れているのか。久間暴言が悪ければ、アメリカはもっと悪いに決まっている。ところがその当然の事実を指し示し、カウンターパンチすらも繰り出せない惨状と、国民を舐め切った自民党の実態を照らしだしたのが、今回の久間暴言では無かったか。

 久間暴言を糺す事によって、アメリカの原爆投下と、現在の盲目的な日米関係を再考する大きな機会をつくりだしていくべきではなかろうか。

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# by shikisima594 | 2007-07-02 23:15 | 随想・雑記
地球温暖化を食い止めよう
 七月に入り、蒸し暑い日が続き、弊会会員たちらも、早くも夏バテ気味である。地球温暖化が叫ばれて久しいが、その現実をなんとなく認識するのが、夏である。とりわけ、今年は例年とは違い、冬すらも「暖冬」と言われるほどの気温で、夏が思いやられていた。

 そして、先月、梅雨入りとは思えない天候で、厳しい日差しが続き、地球温暖化の危機的状況が笑い事ではすまないところまで来つつあるのではないかと、否応なく実感した。このような暑い天候が続く原因を、我々は額に汗しつつも考えてみなければならない。

 地球温暖化の原因としてあげられるのは、人間の生産活動にともなう二酸化炭素をはじめとする温室効果ガスの排出である。これらの削減目標を日本などの国々が定めたのが、平成九年に結ばれた京都議定書である。

 この京都議定書の締結により、地球温暖化の加速も少しは緩やかなものになるかと思われた。しかし、温室効果ガスの多くを排出するアメリカが、この京都議定書に批准しなかった。これによって、京都議定書と地球温暖化防止の取り組みが骨抜きになったとも言われている。

 それどころか、アメリカは自国の科学者に些少の“研究費”をやることによって、「地球温暖化は幻である」とする、黒を白と言いくるめるが如き論文を大量生産して、自分達の環境破壊を弁護するような態度すら見せている。

 アメリカの主要産業の代表格は、車、鉄鋼、軍事であり、それらに必要な原油の生産も自国内において賄えるし、中東の傀儡国家を通して、原油はしっかりと確保されている。そして何よりも、古くからアメリカには「消費は美徳」とする考えが強い。

 消費することによって、貨幣が社会を循環し、人々が富む。そのためには、環境は犠牲となり、自然は征服せしめられる。日本の企業や政治・行政が何だかんだと云いながらも、環境対策をおこなってきたのとは大きな違いである。

 そして、現在ではお隣の中国が急速な経済発展を遂げ、日本も中国からの越境汚染を被るようになって来てしまった。中国の温室効果ガス排出量も増大して、アメリカに迫る勢いである。このまま、中国の13億人がアメリカと同様の生産活動をはじめれば、確実に地球は死の星となるだろう。

 中国人の商売に対する考えは広く知られている通りであるが、彼らはハイエクやスミスが説かれるまでもなく、資本主義の原則に忠実な精神構造をしている。他者への配慮、ましてや環境や地球への配慮を求める方に無理があるのかもしれない。

 しかし、こういったアメリカや中国の環境破壊による開発と生産活動が無分別に行われ続けるのを、我々日本にこそ押し止める責任と義務がある。なぜならば、日本には古来から「もったいない」という観念が存在する。爪楊枝一本、ちり紙一枚すらも惜しんで大切にし、森羅万象に神を見出し、自然と共生してきた祖先の叡智にたちかえるべきである。

 日本古来からの叡智を国際政治舞台で堂々と主張し、世界の国々と手を携えて、地球温暖化をとめ、環境破壊を止める事こそが、我等日本人に課せられた使命であるのではないか。このまま地球温暖化が進めば、我々人類がひとしくその禍を受ける事実を、実感しなければならない。その事を我々の頭上に照りつけるお天道様が何よりも雄弁に物語っている。

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# by shikisima594 | 2007-07-01 23:15 | 随想・雑記
文化国粋主義という思想 〇二四 本論終了
 ここに連載し説明している文化国粋主義とは、私のもつ社会的理想の仮称である。
 これまでに本論は総括され、二つの重要な補足も施した。そして残る最後の補足事項が、本日ついに完結する。

 まずはこれまでの主張を追いたい。
 文化国粋主義者は、正統な民族自決が、秩序をもたらす普遍的な法であると考えなければならない。
 しかし、それぞれの民族自決は、いずれそのうちの大国が国際間の価値に対して、力を及ぼしかねない。放置すれば、それは結局帝国主義の横暴の様相を呈すことに堕す。普遍的な法は、当然その状態も想定しなければならない。
 さしあたり、我々の国際社会への要求は、民族独自文化ではなく、これまで我々が普遍文化と呼んできたものに向けられる。すなわち、具体的で物質的な実証主義であり、科学である。その方法が、人類に不変的な法則を探り出してくれれば、我々は真に普遍なものを作り出す事ができる。
 
 然るに、断固として我々は、西洋人の標準が世界を覆いつくす現在の世界の成り行きが望ましかったものと思えない。それは、西洋で無くとも同じである。世界の諸民族の権威を超越する民族独自文化が現れれば、全ての民族から、或いは国際社会から厭われることになるだろう。言語帝国主義は確実に功を奏し、少数言語を危機の前にさらし続けるという事が、果たして民族を考える上で正義足りうるかどうか。

 だから、我々の主張は当然のものであるに過ぎない。

一八、各民族は連帯し、国際関係社会から民族独自文化の影響の駆逐に努める。

 民族国家を前提とする正統なる国際社会からは、あらゆる民族の影響がむしろ取り除かれなければならない。もし万が一日本人が国際社会を精する事に成功した時でも、日本語を国際語に押し上げ、世界中に君主制と国体思想を押し付け、電子情報の上では全ての文字言語を無理に左縦書きにあわすことが行われたのでは、傲慢な西洋と何も変わることは無いから、失敗とみなすべきは当然である。それが何処なら許されるかという考えは、民族平等の思想のもとにすぐ突き崩される。畢竟我々は、無機質で生命の無い技術に、その共通性を見出すほかはない。言い方を変えれば、これは科学の八紘一宇である。

 これを実現するのに主体的な立場を担ったものは、歴史上最後の道義的中枢となるだろう。日本帝国は、既存の国際秩序に投じられる一石であるものと信じてやまない。皆様がそのような使命を自覚することを願う。しかしながら、日本以上に様々な地域によって、そのような民族独自文化の独裁支配には非難が寄せられる。苦しんでいるのは、日本だけではない。そして、敵は西洋だけでもないのである。


 本項を以って、文化国粋主義の概論は完結したものとしたい。ここまでご覧になっていた方に、感謝の意を表します。以後、賛否を問わずご質問にうけ答え致したい。一人でも多くの方にご叱咤いただければ幸いである。
 臆面も無く私の愚考を申せば、この思想は今後の威信派の指針に明らかに有用な方向付けを行える。もしこの考えに賛同するものがあれば、この戦略論どおり宜しく宣伝ご協力賜りたい。

 天皇陛下万歳
 世界諸民族万歳
 文化国粋維新万歳

新天保暦二六六七年〇五月一五日 ムネカミ

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# by shikisima594 | 2007-06-28 23:59
慰安婦決議、なにするものぞ
米下院外交委員会は26日午後(日本時間27日未明)、旧日本軍のいわゆる従軍慰安婦問題で日本に公式な謝罪を求める決議案の修正案を賛成39、反対2の賛成多数で採択した。(読売新聞)

 もはや、多くを語る必要もない。朝鮮の被害妄想と、アメリカのくだらねえ正義漢気取りにウンザリするだけだ。戦時中に勝手に日本軍に金魚のフンみたいにくっ付いて来た朝鮮人売春婦に、なんで今更、謝罪や賠償の必要があろうか。

 さらには、それをアメリカに言われる筋合いは、サボテンの針の先っちょほども無い。てめえの国の景気や大統領の人気によって、世界中に爆弾の雨を降らせてる国が、学校の先生みたいに日本に説教たれるのは、筋が通らないどころか、憤りを感じる。

 だったら日本もアメリカに対して、「原爆投下・無差別空襲に対する謝罪と賠償の要求決議」をやればいい。慰安婦なんかよりもこっちの方が遥かに、人道と平和を破壊した蛮行だ。まあ今のアメリカの傀儡となり果てた腰抜け自民党政府にはできねーだろーけど。

 だからといって、いつまでも先生に叱られた小学生みたいに指をくわえてうつむいているのは情けなさ過ぎる。安倍総理にいたっては、姑息にも訪米の折に、“おわび”をして事態の沈静化を図ろうとしたようだが、これなどは「従軍慰安婦」の追認に他ならない。

 アメリカが言った事に日本が唯々諾々としてばかりの情けない構造が固定化されているからこそ、今回の決議が大きく取り沙汰されているのだ。アメリカが言えばそれに従う「保守」を自称する方々はどうするのだろう。

 アメリカの議員が靖国神社遊就館の展示内容を批判したのを受けて、遊就館の展示を改めるように騒いだ岡崎久彦などはどうするのだろう。「アメリカ様が言うのだから、日本はただちに元従軍慰安婦の方々に謝罪と賠償を」と言うのだろうか。

 それとも「今回の決議の背景には日米を離反させようとする中共や朝鮮の意図があるから、今回の決議は、戦略的な見地に立って黙って受け入れるべき」と言うのだろうか。どっちにしても主体性を欠き過ぎた意見である。

 日本は今からでも遅くはないから、アメリカに対して「従軍慰安婦」の虚構性について言葉を尽くして説明し、アメリカがかつてに日本に対して行った蛮行を糺すぞと主張すべきであろう。それができなくても、今回のアメリカがやった決議は日本の名誉を貶めるものであると反論声明も出せばいい。

 そしてなにより、根本的な問題として、河野談話の白紙撤回を求める動きますます高めていかねばなるまい。いま現在、河野談話の白紙撤回を求める署名サイトで動きが燃え上がっているところであるが、日本人の意思をアメリカにも朝鮮にも示そうではないか。慰安婦決議、なにするものぞである。

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# by shikisima594 | 2007-06-27 23:07 | 随想・雑記
大丈夫なのか?日本の食卓!
 今月の21日に、食品会社の「加ト吉」が販売する牛肉コロッケ等に使用されていた牛肉のミンチに、豚肉が混じっていた事が報道され話題となった。

 そのミンチを出荷した食肉製造加工会社「ミートホープ」の田中社長は7~8年間に及び牛肉ミンチに豚肉やパン、鴨肉を混入していた他に、他社の鶏肉製品の袋を偽造して、そのメーカー以外の鶏肉を詰めて出荷していたという。

 よくこの様な事をやってのけるなぁと、つくづく呆れてしまうのだが、当の社長は反省しているのだろうか?ニュースの映像を見る限り、私には、とても反省している様には見えなかった。
 「スーパーの安売りに釣られるような消費者が悪い」といった内容の発言を聞いていると、怒りが込み上げてくる。

 国内の食品産業の信頼性を失墜させたこの事件だが、国外の食品は果たして安全なのだろうか?

 先月の23日に、ファミリーレストランの「ジョナサン」に納入されていた中国産ほうれん草に、基準値の12倍の農薬の成分クロルピリホスが検出されたと東京都が発表した。

 更にローソンとニチレイが販売していた中国産冷凍ほうれん草からも同様に基準値を超えたクロルピリホスが検出されている。

 食品の安全性に問題のある国は中国だけではない。
 
輸入が再開され始めたとはいえ、米国産牛肉のBSE(狂牛病)問題は未だに解決していないし、去年の末に韓国に輸入された米国産牛肉からは、同国の基準を上回るダイオキシンが検出されたので、その牛肉が廃棄処分されるという事があった。

 このように、国内外の食品に何らかの問題が発生している中、いったい農林水産省はどういった取り組みをしているのだろうか?
 
 前述した牛肉偽造問題だが、農林水産省は5年前から北海道の保健所と合わせて計8回の立ち入り調査を「ミートホープ」に対して行っているが、連携が取れず、いずれも原材料偽造を突き止める事が出来なかった。

 また、松岡農林水産相の自殺問題とそれに纏わる献金問題が、農林水産省のイメージを悪くしている。
 
では、国外の食品に関しても、厚生労働省はどれだけの対応を行っているのだろうか?
 先に挙げた中国産ほうれん草に関しては、当初はブランチング(下茹での事)された冷凍野菜のみにしか検査を行わず、民間団体からの報告で気がついた。

 本当に食品の安全に対して考えているのか不思議におもえてしまう。
 
 幸いなことに、最近は消費者の間で食品の安全性に関して疑問を持ち、民間が検査を行うというケースが増えている。

 事実、中国産ほうれん草の農薬問題は民間団体からの報告で判明しているのだ。
 しかし、民間がいくら頑張っても国家が働かなければ、限界があるのではなかろうか?
 
 例えば、中国に対する日本産の米の輸出が再開されたが、これは農林水産省の働きかけを中心として、害虫が残らないように薬品で防除した米の輸出は認めると中国に合意させた事だ。

 国内外を問わず、食品の安全性が求められる昨今、民間も国もより良い食品を流通出来る様に努力すべきである。

 文責 洗国


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# by shikisima594 | 2007-06-26 21:49 | 随想・雑記
二〇万アクセス達成感謝!
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# by shikisima594 | 2007-06-25 21:29 | 告知