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日本の国家制度と主体性 第五回 神話時代
 今回の話に入る前に、断っておきたいことがある。残念ながら、この章は科学的な面から考証することができない。

 前回までの章には、実は意図的に、二つの異なる歴史観を混ぜて書いてきた。それぞれ何かといえば、西洋の科学による現代史学と、古来からの神話伝説の類である。この二つの解釈によれば、ひとまず日本の歴史には大きな差が出るということもお伝えしておく。

 すなわち、日本というのは三世紀に始まったのか、それとも今から二六六六年前にさかのぼるのかということである。闕史八代という言葉がある。これは、初代に近い八代の天皇陛下が実在していないとする説で、初代神武天皇から第九代天皇は、まさしく実在が確定していないというのが史実なのである。

 結論から言えば、これらの天皇の実在には証拠が無い。したがって史学に従えば、歴史上これらの天皇は存在していなかったことになる。しかしながら、わが国政府はこの説はとっていない。前章までに説明したが、わが国は天皇陛下と皇統が形式的には最重要とされるので、皇統を疑う政府見解は出せないのだ。

 或いは暗黙のうちにかもしれないが、しかしわが国は、神話伝説によって成り立っているのである。筆者も、科学が導いた歴史観に興味を見出せない。この章では、厳密な科学は放棄することにする。

 前置きが長くなってしまったが、本題に移らせていただく。今回説明したいのは、わが国の純粋な国家体制についてである。

 これまで、わが朝廷が日本の歴史を連綿としていることについて、章を追って説明してきたが、今回は、もうこれ以上掘り下げられない時代の話をすることになる。実は、これまで説明してきたことは、全て外国の影響という問題がすべて付きまとっていた。しかしその影響が無いここに及んでは、ここからの話はわが国の本来の国体を考えることができるだろう。

 以前から指摘していたとおり、この時代からわが国は連邦国家であった。もちろん技術的に近代のほうが、通信や農業の規模から考えても圧倒的に優れているので、事情が異なるということはご了承願いたい。

 しかし、形式的にはその体制は、多数の主権国家が統合して一個の国家にまとまるという性質を持っていてことから、現在は連邦制と呼ばれる政治体制であったということに言及したいのである。もっとも、これは現在でも通じる言葉とは言い切れないが、近代まで使われていた言葉でさらにこの状況をうまく表現できるものがないでもない。すなわち、「帝国」である。

 「帝国」というのは、最も一般化して言えば「王国」より格が上の国家であって、その元首「皇帝」より上の権威を持つ者はいないということになる。この権威は無比ではないが、他の「皇帝」と対等であるに過ぎない。

 さらにこれの土台は、世襲を基礎に権威を継承するのが基本の社会であり、この体制は俗な言葉で「封建制」という。「帝国」というものは、つまり権威がその領域で完結していることになる。「帝国」は「王国」、そしてもちろん、それより格が下の「候国」「寺社領」よりも偉いのであって、制度上、究極的には、それらの格下の国家は一番格上の「帝国」の領土に数えられる。

 「帝国」の下にはそれら多様な国家がまとめられ、古代から中世にかけて、文明化した地域の大体は、この「帝国」が、形式・形骸化したものではあったが、それでも当時「世界」と認識された範囲の全てにまたがった。

 そういうわけで古代日本は、それが一国と認識されたのでなくて、幾つもの国家が連帯しあった(或いは時に対立さえしえた)、一つの「国際社会」であったのだ。その範囲は、大小の差はあれ、ほぼ異民族の集団を統べた中華帝国や、ヨーロッパの殆どを長く統治したローマ帝国にさえ、状況的には匹敵していたことになる。もっと単純に換言しよう。日本とは、一つの独立した「世界」であったのだ。以下は、この視点に重きを置く形で説明する。

 知知夫国といっても、殆どの方は何と読むかわからないと思う。この地域は武蔵野国よりも前に開けたそうで、現在埼玉県の一部である。しかし現在は表記する漢字が違っている。実はこの地域は「秩父(チチブ)」のことである。この「国」は大化の改新(「近代革命」に対しては、「中世革命」ともいえる。)まで、武蔵野国とは別の独立国であった。

 この「国」が、単なる行政区域でなく独立国であったというのには、それなりに根拠がある。その説明のためには、秩父神社を紹介せねばなるまい。この神社は、戦前までは国幣小社といってかなり位の高い神社であった。この神社の創建は、崇神天皇の御世にさかのぼり、西暦では紀元前87年だそうだ。

 この神社の立つ場所は、秩父の象徴である秩父山(今は「武甲山」という)のふもとであり、当時天皇から国造(クニノミヤツコ)に任命された知知夫彦命が、ご先祖様のオモイカネ命と天皇陛下の祖神、そして「全国の神々」をお祭りしたのがはじめという。その宮司はつまり、秩父の国から八方の「国」の神に祈りをささげていたという。

 そして、その国造、つまり「国」の首領であるが、この称号は天皇陛下の許可を以てはじめて効力を発揮した。のであるが、実際には国々で世襲が行われている状態であったようで、ここでも天皇の統治は名目上であったということになる。

 そして、どうやら知知夫彦命の家系は、代々国造をついで来たらしい。これが王権と言えなくして、一体何と言えようか。そしてそうだとすれば、彼が諸国の神々を拝してきた行為は、日本全国の諸国家の、宗教上の敬意表明であったという見方ができる。近代の国家間の関係とさほど相違ない(ややもすれば、それより優れているかも知れない)構造が、ここにはごく自然に見て取れるのである。

 もう一つ神社を紹介したい。こちらは「おやひこ様」で有名な弥彦(イヤヒコ)神社である。この創建の舞台は二六六六年前に遡る。神武天皇が奈良に都を移された際、ご祭神の天之香具山命が功績があったので、越後の国に配属されたという。彼はその後善政を施し、そのお宮の場所が現在の神社となっているようだ。この神社は前述の秩父神社より位が高く、国幣中社であった。

 ちなみに国弊社の幾つかの神社では、そうして「神様」が都から降りてきて、周辺地域を統治したといういわれを持つところがかなりある。その建物は、マツリゴトを行うのに用いられた。政治・祭祀の両方に、ということである。つまり、現在のお宮には、当初の中央政府が管理していた「官庁」であったものがある可能性が極めて高いのである。

 お弥彦様は、その典型であるといえるだろう。建物自体はともかく、少なくとも神社の起源においては、いわば古代の一領邦国家の官庁が、そのまま宗教施設に転化していたものがあるということである。

 しかも、その形式は後代にも続いているとさえ言える場合もある。形式的にはこの領域は「国」としてその後も存続し、そしてお弥彦様は、その「越後の国」の「一ノ宮」として政治に取り入れられていた。これは名目上であったとしても、そのお宮が一帯の統治機関であるという権威体制が存続していた、ということの証明と言えるものだろう。

 ローマ帝国の宗教事情の視点から見れば、この領域と神社の関係は、教会管区と教会のそれに相当している。わが国はそういう形式的な意味で、充分「帝国」であったといえるのだ。
 以上がわが国の、伝統的な国体である。

 文責 ムネカミ

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by shikisima594 | 2006-04-16 20:23 | 随想・雑記
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