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大楠公を偲ぶ
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 大楠公と聞いて誰の事か分かる人は、今の日本ではかなり少数だ。僕の使っているパソコンでも「大楠公」と一発で変換できなかった。この大楠公というのは、楠木正成のことだ。「河内の国の悪党」とは、現在の歴史教科書に書かれている楠木正成に関する記述である。

 徳川家康、織田信長なんかは知っているけど、楠木正成って誰?という人が多いのではないだろうか。以前は「大楠公」と呼ばれ、国民の尊敬を集めた人物であったが、今の歴史教科書ではコラム程度の小さな扱いだ。

 時に元弘元年、天皇御自らによる御親政を実現しようとされた後醍醐天皇は当時の鎌倉幕府に追われ苦境にあられた。その後醍醐天皇の呼びかけに応じて、笠置山の天皇の御元に馳せ参じたのが幕府から「悪党」と呼ばれた楠木正成である。

「戦の習にて候へば、一旦の勝負をば、必ずしも御覧ぜらる可からず。正成一人、未だ生きてありと聞召され候はば、聖運遂に開かるべしと思食され候へ」

 後醍醐天皇を前にして、自分一人が生きていれば大丈夫だとの、この大自信と忠義の誠。これが楠木正成だ。この後、正成は赤坂城で挙兵し、幕府軍を相手に持久戦で善戦するが、形勢が不利になると正成は雨の夜に城に火をつけて密かに脱出。幕府軍は正成が死んだと思い引き上げる。

 しかし翌年、正成は再び挙兵し、縦横無尽の奇抜なゲリラ戦術で幕府軍を翻弄した。この正成の戦いに勇気づけられ、幕府打倒の動きは全国に広がり、元弘三年五月に鎌倉幕府は滅亡した。

 そして、天皇親政による平和な世が訪れたかに見えたが、足利高氏が反乱を起こし、九州から京に攻め上がった。正成はこれを京都に入れ、包囲して討とうとしたが、朝廷はこの案を拒み、迎え撃つように命じた。

 正成は戦のプロである。失敗すると知っていると。しかし一度命令が出たならば、それに従い兵庫に向かう。途中、桜井の駅で十一歳の息子正行に「父亡き後は必ず高氏の天下だ。その時、大義を忘れ、我家多年の忠節を失う様なことがあってはならない。汝をこの世に留め置くのは親子の情にほだされ、汝を不憫に思ってではない。唯々大君のために、滅賊のために汝を残すのだ」と語って、今生の別れを済ませた。

 正成と弟の正季は七百人の兵を率いて湊川へ。一方の足利高氏側は数十万とも言われた。まさに一身万軍に当るだ。これだけの戦力差でありながら、正成は六時間あまり戦ったが、つに兵も約七十人になってしまった。民家に立て篭り最期を迎える際に、正成は正季に「生まれ変わったらどうしたい」と聞いた。

 正季が「七度生まれて、賊を滅ぼしたい」と答えたのを聞き、「自分も同じ考えである」と言って刺し違えて自決した。正成四十二歳。それが延元元年五月二十五日。昨日がちょうど六百七十年目にあたる。忠義に生き抜いた武将の最期だった。

 写真の立派な楠木正成の銅像は皇居外苑に佇み、静かに皇基を守っている。


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by shikisima594 | 2006-05-26 00:32 | 随想・雑記
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