文化国粋主義という考え方 〇〇五
 この連載は、愚考・文化国粋思想の説明をなす一部である。今回お目にかけたいのは、次の点である。

 〇四、技術が普遍的であることを認め、

 前回我々の思考は、民族の永続性をその本来の文化に求め、この対象を民族独自文化と呼んだ。だが同時に次のこともことわってあった。他者からの圧力の前には、我々はどうしても身のうちに変えなければならない文化というものを想定しねばならない。前項から引用して換言すれば、我々はある種の変革を拒むべきでない。このことに関しては、もっと掘り下げて説明する必要があるだろう。
 既に説明したことの繰り返しになるが、我々は民族原点にある文化のいくつかの要素を、その純粋な形を維持したまま、未来完全に実現するという理想に立っている。だから、我々は「神話への回帰」を訴えてきた。然るに、ここでの問題意識はその方法論に差し掛かる。ところが、我々がここで考えなければならないのは、神話時代の社会状況がすべてよかった、そこへ立ち戻るべきと考えるべきかどうかである。この疑問に関して、我々の考えは既に述べたとおり、否である。我々はかの時代にある面では立ち返ることを願うが、同時に重要とみなされなければならないのは、当時と現代には、いくつかの要素がその時代固有の状況を作り出しているということである。つまり、変えてはならない要素と、変えなくてはならない要素とがある、ということに他ならない。

 だから、ここにはある必要が生まれる。回帰させるものを取捨選択するそれである。そのような流れを踏まえて、既に変えてはならない文化ということは説明した。この対象を、「民族独自文化」と仮称した。
 今回お目に触れたいのは、残る課題の処理である。すなわち、我々は一体何を変えなければならないのか。ここで、その対象に仮称したい。「普遍文化」である。

 この普遍文化を説明する前に、一つ説明しなければならないことがある。文化を捉える際の、私の要素意識である。私は以下のような分別を持って、ある文化事象・現象、特に物品にかかわる要素体系を説明する。これは三つある。
 一つには思想である。その用途、所属、概念自体である。
 次に美術である。そのもつ美術様式であり、意匠、技巧、雰囲気、「~風」などの特徴をさしている。
 なお説明の順序が逆転してしまって申しわけないが、この意識は前項の説明にも影響しているとみなされたい。この二つは実際に、我々が守らなければならないものとしてあげた二つの概念の核である。
 今ひとつある。そしてこの説明が、今回の論考には重大な影響をもたらす。すなわち、技術である。

 この三つは、それぞれ密接に関係するところも多いが、それにも関わらず、全然独立した要素であると捉えられる。これらの諸要素に関して、それぞれに民族独自文化であるものと、普遍なものとがある。つまり、民族思想・民族美術・そして民族技術が民族独自文化の全体を成す要素であって、逆に普遍文化も普遍思想・普遍美術・普遍技術の別科から総合して説明できる。民族技術は、多くの場合普遍技術の補助的役割を施すに過ぎないから、あえて注目しなかった。

 そして普遍文化というものにとって、最も重要なのはこのうちの技術である。普遍的技術こそ、全ての民族が追求しなければならない要素であり、変えていかなければならない要素なのである。

 技術とは、物理的な手段それ自体か、その知識の体系・或いは物品そのものであると考えられたい。技術は効率性を求める。技術が発達するというのは、生活を便利にする、或いは快楽化するということである。暮らしが不便より便利が良いのは人類共通のことである。不快や苦痛、苦労の少ない方へ、快い方向へ進むという意志を人は生まれながらに持っている。これは、より根源的には死より生を優先するという意志の延長にあると考えられる。また、技術を高度化させる際、安全性の追求もここに含められる。二つの意志はしばしば実際に矛盾するが、この葛藤に磨かれたものがよりよい技術をまた生み出してゆく。

 さて、かかる技術という要素は、民族を比較する上である種の絶対値となる。技術が進んでいるほうが、技術が遅れている国よりも有利に立つ。ここには、優劣の序列がはっきりと姿を現す。なぜか。実際、例えば戦争において、鉄砲は弓矢より強力であるからである。歩兵だけの軍は、馬という技術を持った集団より弱い。強弱が具体的に現れる状況では、この差は判然とするが、例えば文字という技術を持っていた場合、持たない民族に比べて格段に情報の伝達や保存の効率が上がり、国内統治の体制にも決定的な影響を与える。そのほか、暦法なり、農業、冶金、建築、掘削、陶器、貨幣、医術、数学など、いくらでも民族間の強弱に影響を与える要素が挙げられる。電気ガス水道などの設備、交通設備などの文明的設備無しには、それらを備えた土地からの経済的恩恵を被る諸民族には決して太刀打ちできない。
 また、一部の美術もここに含めて考えることができる。彫刻や、絵画などの技法は、昔我が国にはなかった。後に外国からもたらされたあとで発展し、後に美術的に国粋的なものを表現するに十分なものとなった。漢画の影響が大きいやまと絵は、我々に示唆を与えてくれる重要な例の一つである。それら絵画の技術は、多くがシナに影響されたものであったが、いつしかそれは日本の山河を描くようになり、それは独特の文様美を湛えるまでに発展したのである。民族独自思想の倫理に許され、民族独自美術の洗礼を受ければ、その技術は国粋的なものとして受け入れることが出来るのである。

 さて、ここに一つ主張したい。まずこの質問が重要である。相手の民族と比べて、我々が技術的に劣っている場合、我々は何をするべきであろうか。我々の見解は決している。一体誰が技術を拒むだろうか。我が民族の美術が発展することをよろこばぬ理由が何かあるだろうか。我々は、相手が技術的に優れている場合、これをよろこんで受け入れなければならない。取り入れることは全然悪いことではない。技術は普遍的なのだから、そのままではどこかの文化に所属しない。どの民族の構成員の手によったところで、擦れたマッチは発火するのである。誰の口に入ったところで、黴菌は病気をもたらすのである。だが、相手の文化全体を奉じたのでは全然本末転倒である。我々は、相手の持つ優れたものに関して、彼らの倫理や美術意識をそぎ落とし、純粋な技術のみを輸入する必要があるのである。
 しかも、普遍技術をそのまま取り入れたのではつまらない。我々は文化国粋主義者である。その取り込んだものを民族独自思想と民族独自美術から、民族的にしなければならない。我々は進んで文化を輸入するが、そこでその文化を我々の価値観と美学の中で再構成するのである。したがって、その形式による限り、文化の輸入は、民族の純粋性には何ら差し障り無いのである。

 この視点が、歴史を糾弾する手法ともなる。我々は技術を取り入れなければならない。取り入れるのは、あくまで技術にとどめられなくてはならなかった。
 我が国において、文字は、最初漢字が取り入れられたという。情報の発展には文字は不可欠であった。文字は技術であった。しかしこの文字は、日本語を書き表すには大変不便で、だんだんにわが先祖は独自の音標文字を形成した。まさしく、独自文化化の過程である。かな文字の発明によって、日本語は自然な形で表記されることとなった。しかしながら、漢字は古代シナ語に由来するそれ特有の読み方を日本語の語彙として輸入した。これを我が国の民族独自文化とはいえない。明らかに違う言語体系の輸入であるからだ。文化国粋主義は、かかる必要以外の輸入を嫌う。その物事の代わりになるものが、既にわが民族にある場合である。漢語はやまと語と同じく一言語体系である。仏教は神道と同じく一宗教体系である。唐画はやまと絵と同じく一絵画体系である。だから、我々はその外国性に関して確信を持って排他的なのである。

 我々は、輸入を拒むものでは全然無い。しかもその輸入が、外国に影響されたことであって全然よいが、あくまでも、その反応には主体性がなければならないのだ。つまり、これらの変革でさえ、我々は民族の外からではなく、本質的には内側から起こる、或いは起こすべき現象としなければならない。こうすることによって、我々の改革は民族文化の二重の影響の下にまとめられるところとなる。優れた普遍技術は、独自思想にもし許されれば、独自美術の装飾を施し、我が国に輸入するべきである。このようにして、過去に清算を求め、未来に意志を強めれば、民族の国粋化は最もよいあり方で進展するに違いない。

ムネカミ

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by shikisima594 | 2007-02-14 00:59 | 随想・雑記
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