人気ブログランキング | 話題のタグを見る
文化国粋主義という考え方 〇〇六 
 この連載は、愚考・文化国粋思想の説明をなす一部である。

 これ以降考えていきたいことは、我々が歴史を想定する手法である。これにはまず、説明を施す必要がある。だが、これにも段階を要する。今回はまず、前回までの二つの文化に関して注釈をしたい。

 民族独自文化と普遍文化については、既にお目に触れた次第である。そして、ここではこれらの概念についてことわらなければならない。
 我が国の文化のうち、例えばある事象を取り出すとする。この際、私の考えでは、物品或いは事象それ自体が我が国にとって普遍であるか民族独自であるのかを問うものではない。更には、民族独自文化の純粋なものを形にして見出そうとすれば、ある部分に関してはそうとはいえまいが、その特例を除いてほとんど不可能と考えている。このような考え方自体、誤りであるといわなければならない。

 では、どのように考えることが正しいといえるだろうか。私の考えはこうである。ある事物は基本的に、普遍文化的側面と、民族独自的文化の側面の両方を備えているのである。

 我が民族の歴史上、文字は輸入されたのであるといわれる。この際、輸入された漢字と、その派生物である仮名文字について考えたい。両者とも、この普遍文化の側面では、ひとまず同一の項目にあるといってよい。ここには若干の含みを持たせておくが、これは今は取り上げない。文字というものは、つまり表記の手段で、この有無は情報の伝達や保存の能力に絶対的影響を与える。
 そして、同時にその二つは民族独自文化の面で異なった所属関係にある。漢字はその字のとおり支那文字のことである。 一方、それとは全く異なった言語体系の下に組み込まれた仮名文字は、つまりやまとことば専属の表記体系として定着した文字である。
 よく仮名文字は、漢字の草書から生まれたといわれるが、それはあくまで文字の歴史上の親子関係であって、派生して別個にある以上違う文字体系である。これは言語の相対主義的な立場であるが、異なった言語体系を表記していれば、全く同じ形の、そして全く同じ意味或いは発音の文字でも、違う文字とみなせる。
 例えば、誰かが「ふく」と書いても、それが日本語の筆記体系とみなされる限り、もとは「不」と「久」の草書の連続であるこの文字列を、そうとはみなさない。したがってこれを、「フキュウ」とか「ヒサシカラズ」等とは全然読まない。この状態は、つまり仮名文字は、日本語に所属するということを示すのである。

 民族独自文化とは、多くの場合そのように、普遍文化の核を覆う付属的な要素である。

 ところで、順序が逆転したが、以下のことを心に留めて置かれたい。ここで、なぜ民族独自文化と普遍文化とは、かくも明確に区別されなければならないのかを説明いたしたい。
 じつは普遍文化とは、あらゆる民族が、その保持を歴史上いつかに予定されている、文化的項目のこととみなせるからである。

 回りくどい説明となるかもしれないが、私は、普遍文化とは、万人が何かを成しうるために、どうしても、しなければならないことであり、ほとんど技術ということであると説いている。例えば、生きていくのに食料と水がなければならないのは、民族間の違いなど存在せず、したがって人口をある程度恣意的に統制しようと思えば、農業や牧畜ということはどうしても必要なことである。
 ここで重要なのは、この農業というものは、環境的な要因、或いは熾烈な民族間の闘争があったとき、この有無が決定的な優劣を生み出すことになるということである。

 そして、我々はこのように考えなければならない。農業はやがて、世界に広まることが約束されているのである。
 これは、例に挙げたのが農業であったというだけであって、この考え方は他の全ての普遍技術に当てはまると考えなければならない。なぜかといえば、普遍的なものを獲得したある民族が有力になったとすれば、その影響が近隣に及び、その範囲が徐々に拡大してゆき、しまいには世界中に浸透しきるのは時間の問題であるといえるからである。もしこれを受け入れない民族が出れば、彼らはいずれ淘汰される。つまり、存在の継続を期する限りにおいて、そのような技術の重大なる必要性は、万邦共通である。

 ここまでは仮想的な分析であるが、ここから先は主張である。世界には、滅んでも良い民族など存在しない。とすれば、技術は全ての民族が取り入れなければならないことになる。だから、私の考えでは、後々取り入れるべき、存在効率をあげる要素たる文化があれば、なんとしてもこれを取り入れなければならないということになるのである。
 普遍文化とは、そのような宿命を背負った文化的要素である。我々はもはや、普遍文化に属する全ての文化的項目について、その有無によって民族の優劣を論うことを悪しとしない。技術的に劣っている民族は劣っているのだ。したがって、全ての民族は、普遍文化の側面から見て同等の段階あるいは水準にある必要がある。技術は、絶対軸なのである。
 しかし民族において、技術の優劣を論うとき、これを価値観とはしない。技術自体に価値はない。技術水準によって民族の価値や存在の意義が争われてはならない。技術を取り入れるのは必然であって、今持たざる民族は将来必ずこれをもたなければならないのである。それは予定されている。全ての民族にそれが等しいから、全ての民族は、技術的に同じ条件にたっている。

 一方、独自文化とは、争えない文化のことといってよいだろう。民族的とみなされる美術的指向は、或いは伝説は、そして言語は、その体系自体に価値があり、この該当する範囲がそのまま民族独自文化であるとみなすべきなのである。
 民族はそれぞれ、その独自な、文化の軸を持っていて、それらは絶対的な価値がある。そして、それらは各々のうちにおいて、平等であると見なさなければならないと考える。

 ムネカミ

応援のクリックをお願いします
by shikisima594 | 2007-02-23 23:59
<< 2月23日、皇国史観研究会勉強会 竹島の日 >>