この論考は、愚考・文化国粋主義思想の説明の一部分である。
この説明は、歴史を想定するという必要とその過程について論うに至っている。前回までの要点として、ここでは以下のことを取り上げる。文化国粋主義は、民族が汚染された現実よりも、汚染されなかったとする歴史仮想のほうが価値があるとみなされる。そのように全く新しい思想が、現実に影響しようとする意志をもつ。そして、我々は正統なる神話に起源し、万事万物の民族態は、その最も純粋な姿をその時代に求めることができると説いた。 かかる流れを引き継いで、果たして次の段階で問わなくてはならないこととは、この純粋なる民族態の本質をそのままに、いかにして技術枠のみの更新を期することができるかということである。この意志こそが、保守或いは革新といった、既存の単純な思想分類に対して、独立した立場と見解を保持しうる所以である。 〇六、今日の万物が出来上がった現実の過程から、諸外国の影響が全い状態が連続した過程、つまり、単に技術的な水準が上がる過程を想定し、現代の技術段階における、万物の適切なあり方を想定し、 普遍文化とは、大体効率をあげる手段としての技術が主体であるといえる。しかも、その存在は各民族に予定されているのだと説いた。そして、我々は具体的な技術の形式を普遍枠という単位でとらえた。ある事物は、この基盤に民族態を当てはめることによって成り立っている。 以下に続く我々の主張では、端的には次の認識がその核心となっている。つまり普遍枠は更新される。 技術的に高度な水準・諸業の効率化を追求するという人類普遍の志向を考えると、事物は常に改良・革新が試みられるという想定ができる。民族態は、その民族固有のものであることによって、少なくとも概念上、根源まで続く正統の道程を経て今を重ねるのである。ゆえにこれは、容姿はどうあれ不変である。ところが普遍枠は、常に改良されている方が望ましいといわなければならない。技術的格差を避けるためには、民族は、他者と一定の競争を行わなくてはならない。したがって少なくとも社会の政治的中心は、認知しうる諸外国の程度にあわせて技術的に高度な水準を絶えず追求する必要がある。そのような発想が確立されていることが望ましい。 さて、最初我々の志向は、歴史の誤りを正すということをも視野に入れた。それはまさに、この論理を歴史観とするに至る伏線であったことを打ち明けたい。 我々は、もはや守るべきものと受け入れるものとを抽象的に分類することに成功したつもりでいる。大体において、これは輸入の方法であるといえる。あえて言及するなら、歴史はこのように運行しなければならなかった。 すなわち、わが民族に関する事物一つ一つは、一貫してわが民族の民族態を保持していなければならなかったのであって、一方ではそれらは、普遍枠としては技術的に暫時改良されていなければならないのであった。 例えば言語に関して、それが守られていればどうであったろうか。遠く古代においては民族に独自に文字があったれば、また現代においては、わが民族の言語を基礎とした電気信号の言語体系が規格化されていたということになるのである。 歴史の根源にある神話や、その他の我々の目的意識は絶対であるとした。ゆえに、例えば我々は外来宗教をことごとく邪教としなければならない。だが、わが宗教は死後の世界や世界観を仏教や儒教ほどには詳細に思考した形跡が残っていないため、必然として世界観の大きい異教にあいまいな形で取り込まれてしまう目にもあっていた。神学は当時、もっと重要とみなされなければならなかったのである。これも普遍枠の更新に類するとみなせる。 また外来の技術枠を、わが民族の民族態と結び付けられれば、ある程度の輸入の原則とすることができる。美術においては意匠、和風にすることを尊ぶ。明治維新は、西洋諸外国から彼のさまざまな民族態を取り入れ、しかもそれが西洋という統一されたそれと受け止められ、わが民族態が無視されるという事態に及んだ。いくつかの意味において、これは反省しなければならない。実際には、理想は技術枠のみの輸入であり、民族態による再解釈であったのだ。 あるいは、現在外国から寄せられた事物の技術枠に当たる何かがなかったとしても、過去に遡って当てはめられる例は見過ごされるべきでない。この際、先行する民族の技術枠とするには、直接その形をしていなくとも、その一段階前のものも有効である。 個々には、そのように輸入の際に心がける必要がある。だが、留意されなくてはならない件もある。その先にも思索を進めたい。 我々の美術或いは精神的に純粋なものが、輸入の際にそうして徹底される必要があった。とはいっても、現に輸入が必要となるものは、我が国の技術枠の現状に比してかなり進んだものとしてとらえられることが多い。加えて民族態を当てはめようとする際、技術枠が似ている何かであれば、選択に差しさわりが少なくなることを考慮する上では、一見しただけでは全然前例がなさそうなものもある。 その際、思考の手助けとするために、以下の指針は重要とみなされたい。相手の事物をその初期にまで遡って、原型を探ればよいのである。彼にわが民族態の体系から掘り下げた具体的な姿を当てはめる必要である。 西洋の宮廷音楽が我が国に入るや否や、その愛好家は電光石火の勢いでわが民族に増していった。結果として、我が国のそれまでの音楽や楽器が全く省みられることなく、我が国の音楽の新たな基点として彼らが定着してしまっているのは、文化国粋主義の立場からはきわめて遺憾であるといわねばなるまい。あまりにも大きな技術格差を目の当たりにすると、それは何か絶対的な差であるかのように感じられることはよくあることである。ところが、例えば管楽器は凡そ牛や羊の角をくりぬいた単純な祖形を復元でき、しかも我が民族は伝統的にほら貝や笛を嘯いていたのであったから、彼我の差は発想の有無という絶大なところには至っていなかったのである。 ピアノは縦琴が原型になっている。そのため、これを後に模した大正琴のような楽器が生まれていることからも、この発展の可能性はまだあると見なければならない。それらの意見や発想の強調に、我々は取り組む必要がある。 つまりは、このような方法で事物は輸入されなくてはならない。わが民族にあった何かが独自に技術的に進展した際に、それがいかにして生まれたかという想像である。そのような構想を、彼に当てはめることによって、その普遍枠の、わが民族のうちにおける装いが想定できるのである。 ムネカミ 応援のクリックをお願いします
by shikisima594
| 2007-03-13 23:59
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