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政策論のすすめ
 昔、当時の西洋の啓蒙主義に刺激された福沢諭吉は、儒学をほとんど否定してしまった。彼の著書『学問のすすめ』では、今日における学問とは違った意味での「学問」が使われている。
 広く知られているとおり、その「学問」というのは実生活に役立つ方法としての学問であった。彼は、ほとんど神学と化した無意味な政治論であった儒学という学問領域に嫌気がさしたらしく、修めたそれをけなし、実学を学んだという。

 政策論なき学問は無駄であり、学問の無い政策論は夢のようなものに過ぎない。われわれは、これまで理念に偏りすぎ、又それさえも、現実にどれだけ言及できるものか、具体的な事例を挙げて考えなかった。これは、わが会や、この思想潮流全体よりも、もっと大きなものを捉える。

 なぜ日本における多くの経済論や文化論は、西洋とは対照的に、実体の無い、空虚な神学論争の呈を晒したのか。この問題に関して、極論ではあるかもしれないが、私は核心を付いた指摘が出来ると思う。それとは、日本には欧州のごとき政治的経済的不安が少なく、特に戦後は、諸外国に比べてほとんど問題の無い良好な状態であったのである。少なくとも、普通の日常という安定した生活が、ほとんどの人に保障されていた。

 だが日本人は、この平穏を自ら打ち砕いた。空虚な希望にみちた民衆の躍動は、戦争で散ってくれた多くの犠牲と引き換えに成長した、経済的中流層主体の安定した国民経済に、今や自ら第三世界並みの悲惨な経済状況を招きいれた。世界最高レベルの経済的上流層は、この先十数年は、世界経済の植民地化をはかるアメリカの超企業におもねって生きてゆくことが出来るかもしれないが、それはさしずめ、現地民の反感を一身に受けるべく仕向けられた、植民地マレーのシナ系人のごときものに過ぎない。しかも、自己責任やアメリカンドリームという思想装置が長く支持されるほど、日本人の思考が理念的であるとは全く考えられない。

 この様な危機が国内にあるのだから、我々はもはや、国体思想とか伝統を抑えたくらいでは、
大衆の支持と国体護持はつとまらなくなるものと覚悟する他無いだろう。

ムネカミ

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by shikisima594 | 2007-07-04 17:40
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